「日本人は無信仰で、日本には宗教がない。」

そんな話は、宗教の話題になるとよく出ます。

確かに私達は、クリスマスのあと一週間も立たないうちに、お寺や神社に初詣に行ったりしています。

さらに若者は、ハロウインだといっては大騒ぎ、しかしその一方で誰かが亡くなれば仏壇に手を合わせたりもします。

また結婚式はといえば、多くの女性は「ウエディングドレスがいい」などといいます。

そんな一貫性が無いような、無分別に見える日本民族に宗教観などは見当たらないというのです。

神道という宗教

しかし、本当にそうでしょうか?

「日本人は、無宗教だ。」という人は、何と比較して言っているのでしょう。

思うに、キリスト教・イスラム教・仏教など世界に名だたる宗教と比較しているのではないのでしょうか。

現に、それらの宗教を信奉しんぽうする外国の方々から見れば、日本人は理解不能で不思議な民族であるようですから。

ただ、他宗教を信奉する外国人ならいざしらず、日本人であるあなたがそう思うのはちょっと違うのではないでしょうか。

なぜなら、あなたが意識するとしないとに関わらず、神道という信仰が厳然げんぜんとしてあなたの生活にも存在しているからです。

「私は、神道なんていう宗教に入信した覚えはない!」とおっしゃるかもしれません。

しかし、私の言う「神道」とは、最近流行りの新興宗教でいう「神道」とは全く違うものです。

この「神道」という「宗教」は、何千年も前からこの列島に暮らす人々の、生活の一部として溶け込んでしまっています。

そのため大多数の自称無信仰の日本人は、他宗教の信徒の方々とは違い、それを宗教としてあえて意識することもなく、普段の日常を暮らしているのです。

現代の日本人は、「宗教」というと無意識に身構えてしまいます。

これは、宗教という名の金儲け団体があまりにもはびこってしまったからです。

本来の「神道」は、それとは全く異質のものです。

宗教という言葉

そもそも、「宗教」とは明治時代にできた造語でした。

それまで、仏教用語で「宗(真理)」・「教(教え)」としての言葉はありました。

ただそれは、一般庶民には知られてはいませんでした。

それが、明治時代になって外国と付き合うようになり、彼らが信奉するキリスト教に対抗するものとして神道を担ぎ上げ、英語の「Religion」を翻訳するに当たり適当な言葉が見当たらなかったのです。

そこで、「神道」に「宗教」という新たなジャンルを作り名付けたのです。

それにより、江戸時代までは神道・仏教など区別することなく暮らしてきた人々に、宗教観というものを植え付けてしまったのでした。

日本人の宗教観

日本独自の宗教である神道には、戒律かいりつがありません。

例えば、日々の暮らしの中で食べてはいけないものはありません。(ヒンドゥー教徒の牛のように)

そして、毎食の前に祈りをささげなくてはいけない、ということもありません。(キリスト教の食前の祈りのように)

「いただきます」という言葉がありますが、これは自然に感謝し他の生命を「いただく」ということなので、祈りを捧げるのとは違います。

また、毎日同じ時間に礼拝しなくてはいけない、ということもありません。(イスラム教の一日5回の礼拝のように)

しかし、そういった強制的な決まりごともなく、普段の生活の中で意識することもなく、それでも日本人の大部分は日本の神々を信じうやまっています。

また他宗教と違い、自分たちの信仰する宗教に帰依きえしない人々を、異教徒として迫害はくがいしたり否定することもありません。

もっともかつて日本でも、江戸時代にはキリスト教徒が迫害されました。

しかしそれは、宣教師たちがキリスト教の布教と言って来日したのに、実は彼らが植民地化の先兵であったことによるものでした。

また彼らとともに、奴隷商人たちも入り込み、日本の子どもたちが大量に売られていったことにもよります。

参考記事

そもそも、神道には無数の神様(八百萬やおよろずの神=数限りなく多い神様)がり、他宗教の神様も迎え入れています。

なぜなのでしょうか?

それは神道という宗教の本質が、世界中にある宗教と呼ばれるものとは全く異質のものだからです。

そうしたことから、神道を他宗教と比較すること自体がおかしいとも言えるのです。

日本にある自然宗教

遠いいにしえの昔から、日本人はこの変化の激しい豊かな四季という自然と共に暮らしてきました。

ただこの大自然の豊かさは、厳しい自然環境とも表裏一体でした。

そうしてその人間の力など及ばない克服できない存在を、日本人は神としておそれ・うやまい・祈りを捧げて来たのです。

これこそが、本来日本人の持つ宗教観の原点であり、神道の本質なのです。

かつて私達の祖先は、山を神の住む場所とし神社を建て、また巨石に注連縄しめなわを渡し祈りの場とし、そして巨木に神を見たのです。

そしてそこから生まれた信仰は、教祖が言いだしたいわゆる創唱そうしょう宗教ではなく、その場にいた皆が共感した自然宗教です。

自然宗教と言うと欧米の人々は、未開の地に住む人々の儀式のようなものを想像するようですが、現に日本にはいまだにそれが息づいているのです。

ちなみに、かつて古代ヨーロッパにも、ドルイド教という自然宗教がありましたが、キリスト教の浸透とともにほぼ消滅してしまいました。

ただ、近年のエコブームの中で、ネオドルイドと呼ばれる概念が出てきてはいるようです。

参考記事

つまり神道という宗教は、日本国の誕生そして天皇の誕生から始まり、今の日本人の心のなかにも普通に染み込んでいる、世界的にも不思議で奇跡的な宗教なのです。

日本固有の宗教を知らない日本人

ところが、第二次世界大戦へと突き進んだかつての日本は、神道を利用した思想により天皇を神様にしてしまい、そのため神国日本という軍国主義がはびこってしまいました。

そのため、日本が戦争に負けると戦勝国であったアメリカは、この思想が日本を戦争へと導いたのだとし、かつては学校教育の場でも教えられていた神道を抑え込んでしまいます。
(実のところは戦争の発端は、それだけでもなかったのですが。)

また、当初は天皇は一般庶民とし、神道は廃絶するとまで話がいきました。

しかしそれは、日本側の強い抗議によりまぬがれましたが。

ただ、これにより戦後生まれた人々は、日本固有の宗教である神道に馴染なじみがなくなり、興味もなくなってしまったのです。

そして、その孫やひ孫である最近の若者たちなどは、「天皇というのはなんであんなに偉そうなのか?」などと言い出す始末になってしまいました。

本当のところは天皇が偉いわけではなく、この日本国の伝統と歴史を継続させてきた形態を具現化した天皇家という家系が、神道という日本固有の宗教を継承してきただけなのです。

こうしたことから戦後の人々は、かつての日本人が持っていた宗教観(信仰観)に実感を持てないというだけなのです。

神道を知るという事

「神国思想」は、日本の第二次世界大戦の敗戦により戦勝国によって断絶させられました。

そうして、戦後に生まれた人々は、神道というもの自体に馴染なじみがなくなってしまいました。

それにより、よくも悪くも神道を知らない人が増えてしまっているのも仕方がないことなのでしょう。

戦争を知らない世代はすでに第3世代から第4世代に移り変わりつつあります。

お父さんお母さん世代は言うに及ばず、おじいさんおばあさん世代でさえよくわかっていないのかもしれません。

また、たとえ戦争時代を経験した人がいても、それは歪んだ神国日本の思想でしかないかもしれません。

ただその一方、地方ではまだまだ大家族で暮らす人々たちもいて、いにしえからの祭祀さいしの伝統を受け継いでいたりもします。

実は、それこそが本当の「神道という信仰」なのです。

神道自体は「日本」という国の始まりとともにあり、そしてそれ以前から人々の暮らしとともにあった、祈りの信仰でした。

ただその後の歴史の中で、神道にとっては不幸な時代もありました。

その最たるものが、国家神道でした。

昨今若い方々の中には、「神道ってなんだかよくわからないから、簡単に説明してくれ。」などという人たちも多くいます。

しかし、この長い年月の中で続いてきた信仰は、そんなに簡単に説明できるものではありません。

このサイトでは、この国の起源とともに生まれた神道について興味を持っていただき、日本人としての誇りを持ってもらえたらと願い書いていきます。

ご自身の産まれた国、故郷ふるさと日本の心を感じていただくための一助となれば幸いです。

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Posted by 風社