【古事記】(原文・読み下し文・現代語訳)中巻・その伍
是以其父母欲知其人 誨其女曰 以赤土散床前以閇蘇【此二字以音】紡麻貫針刺其衣襴 故如教而旦時見者 所著針麻者自戸之鉤穴控通而出 唯遺麻者三勾耳 爾卽知自鉤穴出之狀而從糸尋行者 至美和山而留神社 故知其神子 故因其麻之三勾遺而名其地謂美和也 此意富多多泥古命者【神君鴨君之祖】
是以其の父母其の人欲知し其の女に誨へ曰く赤土以て床前散らし閇蘇【此の二字音以てす】紡麻以て針貫し其の衣襴に刺さむ故教如し而旦時に見る者所著針麻者戸之鉤穴自り控通りて而出づ唯遺れる麻者三勾耳爾即ち鉤穴自り出之状知らむ而従糸尋ぬ行く者美和の山至り而神社留りぬ故其の神の子知りぬ故其の麻之三勾遺れるに因りて而其の地名美和と謂ふ也此の意富多多泥古の命者【神君鴨君之祖】
そこで父母は、その人を知りたいと思い、娘にこのように教えました。
「赤土を床の前に散らし、麻糸の巻束の一端を針に通し、その衣の裾に刺しなさい。」
そこで、教えられた通りにして翌朝見ると、針をつけた麻糸は戸のかぎ穴から引き通して出ていました。
残された麻糸は、ただの三輪のみでした。
そこで、かぎ穴から出た糸の行方を知ろうと、糸に沿って尋ねて行くと、美和の山に至り神社に留まっていましたので、それが神の子であったことを知ったのでした。
このように、その麻糸が三輪残されたことによりその地を名づけ、美和と申します。
この意富多多泥古命は神君(三輪君、鴨君(大鴨積命)の先祖です。
又此之御世 大毘古命者遣高志道 其子建沼河別命者遣東方十二道而 令和平其麻都漏波奴【自麻下五字以音】人等 又日子坐王者遣旦波國 令殺玖賀耳之御笠【此人名者也玖賀二字以音】故大毘古命罷往於高志國之時 服腰裳少女立山代之幣羅坂而歌曰
又此之御世大毘古命者高志道に遣はし其の子建沼河別命者東方十二道に遣はし而其の麻都漏波奴【麻自り下五字音以てす】人等和平さ令む又日子坐王者旦波国に遣はし玖賀耳之御笠【此れ人の名者也玖賀二字音以てす】殺さ令む
故大毘古命に於ひて高志国罷往き之時腰裳服たる少女山代之幣羅坂に立ち而歌し曰く
またこの御世に、大毘古命を越の道(今の福井県から山形県に至るまでの道)に派遣し、その子建沼河別命を東方十二道(東海道から東北に至るまでの道)に派遣し、帰順しない者たちを平定させました。
また、日子坐王を丹波の国に派遣し、玖賀耳之御笠を殺させました。
さて、大毘古命がそこを辞し越の国に出かけたとき、腰にまとう裳を着た少女が山城の国の幣羅坂に立っており、この歌を詠みました。
美麻紀伊理毘古波夜 美麻紀伊理毘古波夜 意能賀袁袁 奴須美斯勢牟登 斯理都斗用 伊由岐多賀比 麻幣都斗用 伊由岐多賀比 宇迦迦波久 斯良爾登 美麻紀伊理毘古波夜
美麻紀伊理毘古波夜 美麻紀伊理毘古波夜 意能賀袁袁 奴須美斯勢牟登 斯理都斗用 伊由岐多賀比 麻幣都斗用 伊由岐多賀比 宇迦迦波久 斯良爾登 美麻紀伊理毘古波夜
御真木入日子よ 御真木入日子よ 己が命を盗んで死なせようと 後ろの戸 前の戸を行き違い 窺ってるぞ 知っているのか 御真木入日子よ
於是大毘古命思恠 返馬問其少女曰汝所謂之言何言 爾少女答曰 吾勿言唯爲詠歌耳 卽不見其所如而忽失 故大毘古命更還參上 請於天皇時 天皇答詔之 此者爲在山代國我之庶兄建波邇安王 起邪心之表耳【波邇二字以音】伯父興軍宜行
於是大毘古命思恠馬を返し其の少女に問ひ曰く汝謂所之言何をか言ふ爾少女答へ曰く吾勿言し唯詠歌為耳即ち其所不見如而忽失せぬ故大毘古命更還り参上ぬ天皇に於請し時天皇答へ之詔此者山代の国在り為(な)る我之庶兄建波邇安王邪心起こし之表耳【波邇二字音以てす】伯父や軍興し宜行かむ
これを大毘古命は怪しみ、馬をとって返し、その少女に尋ねて言いました。
「あなたの言葉は、何を言おうとしているのですか。」
これに少女は、答えて言いました。
「私は言葉で言えることはありません。ただ歌詠みしているだけです。」
そして、その場所に見えないと思ったら、忽然と姿を消してしまいました。
そこで大毘古命は改めて戻り参上し、天皇にこのことをお伝えしました。
その意味をお尋ねした時、 天皇はそれに答え、このように詔されました。
「これは、山城の国に滞在する私の庶兄(妾腹)に生まれた兄、建波邇安王が邪心を起こしたことを表すとしか思えません。伯父上よ、軍を興し宜くお出かけください。」
卽副丸邇臣之祖日子國夫玖命而遣時 卽於丸邇坂居忌瓮而罷往 於是到山代之和訶羅河時 其建波邇安王興軍待遮 各中挾河而對立相挑 故號其地謂伊杼美【今謂伊豆美也】爾日子國夫玖命乞云 其廂人先忌矢可彈 爾其建波爾安王雖射不得中 於是國夫玖命彈矢者 卽射建波爾安王而死 故其軍悉破而逃散
即ち丸邇臣之祖日子国夫玖命副へ而遣し時即ち丸邇坂に於忌瓮居え而罷り往く於是山代之和訶羅河到りし時其れ建波邇安王軍興し待ち遮へぬる各中に河挟みて而対ひ立ち相挑む故其の地号け伊杼美と謂ふ【今に謂ふ伊豆美也】爾日子国夫玖命乞ひ云ふ其の廂人先に忌矢可弾爾其の建波爾安王雖射不得中於是国夫玖命弾きし矢者即ち建波爾安王射て而死す故其の軍悉破れ而逃げ散る
そうして、丸邇臣の先祖である日子国夫玖命を副官として遣わし、丸邇坂に忌瓮を据えて、退出して出かけました。
ここに、山城国の和訶羅川に到った時、いよいよ建波邇安王は軍兵を興して待ち受け、進路を遮りました。
それぞれ間に川を挟み向い立ち相挑んだので、その地を「いどみ」と名付けました。
今は「いづみ」と言います。
さて、日子国夫玖命が促しました。
「そちら側の人、先に忌みつつしむ矢を引き撃ちなさい」
言われた通りに、建波爾安王は射ましたが、当りませんでした。
そして、国夫玖命の引き撃った矢は、建波爾安王を射て死なせました。
よって、その軍兵は悉く敗れて逃げ、散り散りになりました。
爾追迫其逃軍到久須婆之度時 皆被迫窘而屎出懸於褌 故號其地謂屎褌【今者謂久須婆】又遮其逃軍以斬者如鵜浮於河 故號其河謂鵜河也 亦斬波布理其軍士故 號其地謂波布理曾能【自波下五字以音】如此平訖 參上覆奏
爾其の逃ぐる軍追ひ迫り久須婆之度に到りし時皆被迫窘て而屎褌に於出し懸りし故其の地号け屎褌と謂ふ【今者久須婆と謂ふ】又其の逃ぐる軍遮へ以て斬る者河に於浮きし鵜の如故其の河号け鵜河と謂ふ也亦其の軍士斬り波布理し故其の地号け波布理曽能と謂ふ【波自り下五字音以てす】如此平げ訖へ参上覆奏
そして、その逃亡する軍を追い迫り、久須婆の渡しに到ると、皆追い詰められて屎を褌(ふんどし)に出し掛けたので、その地を屎褌と名付けました。
今は樟葉と言います。
また、その逃げる残兵を遮り斬ると、鵜のように川面に浮いたので、その川を鵜川と名付けました。
また、その軍兵を斬り波布理(屠り=殺し)ましたので、その地を波布理曽能と名付けました。
このように平定し終え、参上し復命しました。
故大毘古命者隨先命而罷行高志國 爾自東方所遣建沼河別與其父大毘古共往遇于相津 故其地謂相津也 是以各和平所遣之國政而覆奏 爾天下太平 人民富榮 於是 初令貢男弓端之調 女手末之調 故稱其御世 謂所知初國之御眞木天皇也 又是之御世 作依網池 亦作輕之酒折池也 天皇御歲 壹佰陸拾捌歲 戊寅年十二月崩 御陵在山邊道勾之岡上也
故大毘古命者先の命の隨而高志国に罷行ぬ爾東方自所遣し建沼河別与其の父大毘古共に往き相津に于遇ひし故其の地相津と謂ふ也是以各所遣はし之国政和平し而覆奏爾天下太平人民富み栄ゆ於是初男弓端之調女手末之調貢ら令む故其の御世称へ所知初国之御真木天皇と謂ふ也又是之御世依網池作り亦軽之酒折池を作らむ也天皇御歳壱佰陸拾捌歳
戊寅の年十二月崩御陵山辺道勾之岡上に在り也
そこで、大毘古命は以前の詔に従い罷り(退出し)、高志国(越の国)に向かいました。
そして、東国方面に遣わした建沼河別とその父大毘古は共に行き、相津で遇いました。
今は、その地は会津と言います。
ここに、それぞれが遣わされた国の政を治めて、復命しました。
このようにして天下は太平となり、人民は富み栄えました。
このとき初めて、男子に弓端之調(弓矢で取った鳥獣)、女子に手末之調(織った布地・絹布)を貢がせました。
そして、その御世(天皇の世)を称え、初国知ろしめす(国を初めて統治する)御真木(御真木国=今の岡山県あたり)天皇と呼ばれました。
またこの御世に、依網池を作り、また軽の地(今の奈良県橿原市大軽町あたり)に酒折池を作られました。
天皇の御歳168歳。
戊寅の年十二月に崩御し、御陵は山辺道の勾の岡の上にあります。
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