【風土記】について
大和王権が神道を立ち上げたのは、国家としての形を日本の国の内外に示すためでした。
時の政権、第43代天明天皇は第40代天武天皇による古事記編纂の遺志を継ぎ、そのために必要な公文書を編纂する事としたのです。
それが「日本書紀」であり、「古事記」です。
先に国内に向けて編纂が始まったのが「古事記」であり、後に海外に向けて(主に中華王朝に向けて)編纂されたのが「日本書紀」でした。
結果的に両者は同時期に完成されましたが、この編纂には参考資料となるものが必要でした。
それが「風土記」と呼ばれる、地方からの政情報告書でした。
風土記編纂のいきさつ
第43代天明天皇は、和銅6年(713年)5月両書編纂にさきがけ、支配下の各集落にその政情を報告するよう勅命を下します。
この地方から中央への公式文書としての報告書が、いわゆる「風土記」と呼ばれる日本の各地方の報告書でした。
また、この報告書は各地方の当時の実情が克明に書かれていたため、現代では当時を知るための貴重な歴史書でもあります。
各地の風土記
しかし現存している風土記も一部で、また中でも完本(写本ではあるが)として残っているのは「出雲国風土記」のみです。
そして、一部紛失してはいますが(写本として)残っているものは「播磨国(兵庫県南部)風土記」・「肥前国(壱岐・対馬を除く佐賀県と長崎県)風土記」・「豊後国(大分県の大部分の地)風土記」・「常陸国( 茨城県の大部分の地)風土記」などです。
その他の国の風土記は、正式にはいまだ発見されてはいません。
風土記の内容
勅命による報告書(風土記)に記すべき内容は、
・「好字二字令(諸国郡郷名著好字令)」による「郡郷」の名
・その土地で産する物品
・その土地がどれほど肥えていて、どれほど作物ができているか
・地名の語源
・古老(昔からのことに通じている老人)が伝承している旧い言い伝えや変わった話
の五つでした。
好字二字令とは
713年(和銅6年)、元明天皇が発した「諸国郡郷名著好字令」のことです。
この令は、国・郡・郷などの名前を、漢字二字で表記するように指示したものでした。
それまで各集落の地名は、話し言葉であった大和言葉に中華王朝の言語である漢字という外国語をあてた当て字でした。
そのため、文字数もバラバラでした。
王権はその令によってすべて漢字二文字に統一しようとしたのです。
これは、当時先進国であった中華王朝に倣ったもので、文字数がバラバラなのは良くないとして、五畿七道の国郡里の名称を、好い意味の二字にすべて置き換えよという命令でした。
これが好字二字令です。
例えば、明日香は飛鳥、津の国は摂津の国、泉の国は和泉の国、木の国は紀伊の国などというように変更させられました。
これは全国的に及び、例えば毛野の国は二つに分割され上毛野の国・下毛野の国となり、後に上野国(現在の群馬県)・下野国(現在の栃木県)となったのでした。
ちなみに、現在あるJR両毛線は栃木県小山市の小山駅から群馬県前橋市の新前橋駅まで(両方の毛野の国)を走る路線で、この両毛という名称の由来は「毛野」の国から来ています。
そしてこれは、地名に限らず山・川・湖・沼などの名称や人名にも及びました。
大和王権は、当初その支配が及ぶ国内地域を五畿七道という行政区画に分けました。
これは、都周辺を畿内五国(山城・大和・河内・和泉・摂津)、それ以外の地域を七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)に区分したものでした。
そしてその下の地方を、国郡里制という法律により国・郡・里という三段階に区分けしました。
後に里が廃止され郷となり、その下に2~3の里が置かれました。
この中区画の郡と小区画の郷を指定して郡郷といったのでした。
なお、この郡は大宝律令以前からあった区画で、その当時は評と言っていたため、郡をこおりとも言います。
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