【神道の歴史】その肆~国家神道から国体思想へそして神国日本へ~

神道

明治に入り神道は新たな変貌へんぼうげます。
国家神道が現れるのです。
国家神道とは、国家としての根幹を宗教思想による理念によって成り立たせようとしたものです。
そしてこれは、明治政府が欧米諸国と対等に付き合うために打ち出した政策でした。

政府は、西欧にあった立憲君主という仕組みを取り入れ、それと我が国の古代にあった大和王権という天皇集権国家を一体化させることで、新たな国家を目指していったのです。

しかし政府は、最初から国家神道という国家思想を計画していたわけではありませんでした。

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国教となった神道

徳川幕府が大政奉還し、権力は再び天皇にかえる事となりました。
それとともに諸外国との外交が公式に始まったとき、見えてきたのが西欧諸国の帝国主義でした。

ちょうどこの頃欧米諸国は、アジアに触手を伸ばしていました。

大英帝国は、清とのアヘン戦争によって侵略を始めており、北からは帝政ロシアが樺太からふとより北海道に侵攻しようとしていました。

そして、アメリカとは不平等な通商条約を結んだばかりでした。

国威啓発のために利用された神道

明治政府は、何百年と続いた鎖国が終わり欧米諸国と対等に付き合っていく必要がありました。
そこで国家として確立するために、欧米先進国の制度や文化を取り入れることにしました。

しかし、彼らの宗教であるキリスト教を取り入れることはありえませんでした。
なぜなら、欧米諸国がキリスト教の布教という名目で、近隣の東南アジアの国々を次々と植民地化していったことを知っていたからでした。

当時、西欧列強とされたイギリス・フランスなどの国は、世界各国を植民地化することで勢力を広げていました。

最初に宣教師を送り洗脳し、次に商人を送り人身売買や本国に必要な物資の調達をし、最後に軍隊を送って武力で国を乗っ取ってしまうという西欧列強の常套手段は、この頃特に盛んに東南アジアでも行われました。

それ以前日本でも、「戦国時代織田信長が許したキリスト教布教により、植民地化計画が進んでいきましたが、豊臣秀吉がこれに気づいたために植民地化されずに済んだ。」という歴史がありました。
そして、それを学んでいた明治政府が、その西欧列強の手に乗ることはなかったのでした。

「では、そうした欧米諸国に植民地化されないようにするにはどうしたらいいのか。」
そうして、「日本にはいにしえから神道という宗教が伝承されており、さらに江戸時代末期にはそれにより古神道・復古神道の動きから尊王攘夷そんのうじょうい運動が隆盛しているではないか。」ということになったのでした。

そこで明治政府は、かつての大和王権のように祭政一致さいせいいっち(政治と宗教が一体化した)の国家を再び創ろうと考えたのでした。

このようなことから、キリスト教に対抗するためイエス・キリストの代わりに天皇陛下を神とし、聖書の代わりに古事記・日本書紀を聖典としたのでした。

つまり、一神教であるキリスト教を信仰する国と対等にあるために、神道を国教とし天皇を教祖とした一神教の国家宗教が必要だったということでした。

また、開国以来の治安問題(浦上村事件など)を解決するためにも、キリスト教に対抗できるのは神道の他には選択肢がなかったのでした。

浦上村事件
幕末に、現在の長崎県にあった浦上村で起きた大規模なキリシタン弾圧事件のことです。
明治になり村民たちは流刑になりましたが、欧米諸国の激しい非難を受け1873年(明治6年)にキリシタン禁止制は廃止されることになります。

こうしたことから、律令制の崩壊以降衰えていた神祇官じんぎかんを再び置き、中世以降習合していた神道を再編していくのでした。

仏教への排撃

政府は、明治1年(1868年) 3月 27日神仏判然はんぜん令(神仏分離令)を発布します。

そしてこの政策から仏教を排撃はいげき(追い払おうと攻撃すること)し、神道を極度に重んじようとする過激な廃仏毀釈はいぶつきしゃく運動が起こっていきました。

廃仏毀釈はいぶつきしゃく運動とは

ほとけはいし、釈迦しゃかの教えを破毀はき(破棄)しようという動きのことです。

明治政府としては神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥はいせき(仏教をこばみ退ける事)を目的としてはいませんでした。

しかし、結果として廃仏毀釈はいぶつきしゃく運動(廃仏運動)と呼ばれた大規模な寺社・仏像などの破壊活動を引き起こしてしまいます。

そして仏教徒たちは、寺院の廃止統合・僧侶の神職への転向・仏像、仏具の破壊・仏事の禁止などを強制させられてしまうのでした。

そもそも廃仏毀釈はいぶつきしゃくの動きは、江戸時代にはすでに復古神道の興隆こうりゅう(勢いが盛んになる)と共に起こっていましたが、国の神道政策によりさらに激しくなっていってしまったのです。

大教たいきょうという国家方針

明治3年正月3日(西暦1870年2月3日)、明治天皇は宣布大教せんぷたいきょうのみことのりという詔書みことのりしょを出しました。

これは、天皇に神格を与え神道を国教と定めるというもので、日本(大日本帝国)を祭政一致(神道と政治の融合)の国家とするとした国家方針を大教たいきょうとして、国の内外に示したものでした。

また明治4年正月5日(1871年2月23日)、太政官によって寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収(一般の物を、国家が国の物として取り上げる事)されました。

これは、神社を国がまつるべき公的機関と規定したものでした。

これにより神道の儀式はすべて行政機関の管轄ということになり、神職は準公務員という立場(教導職)に変えられ、内務大臣の指揮下に入ることになりました。

しかし、その体制も徐々に変貌していきます。

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国家神道の迷走

神道を国教として、全国民に祭政一致の教化をしようとした明治政府でしたが、大教宣布の運動は頓挫とんざ(計画が途中で止まること)してしまうのです。

なぜなら、「教導職」という国民の信仰としての神道を広めるための役人を育成するのは難しく、結果人手不足に陥ってしまったからです。

また、神道以外の宗教的な説法は禁止するなどの措置を行ったため、仏教界などからの激しい反発にあう事により、体制の維持・継続がむずかしくなってしまったからでした。

こうしたことから明治政府は、神道の祭祀さいしに対する関わりを減らし、官社に関しては説教も宗教活動も禁止とすることにしてしまったのです。

ただ、国が認可した神社以外のその他の諸社に関してはお構いなしという、結果として曖昧あいまいなことになってしまいました。

これにより、政府としては当初国家政策としての神道(国家神道)のかなめであったはずの神社への優遇を、やめてしまいました。

そして、神祇宮・式部寮・教部省などの管轄を、府県知事に委任してしまいました。

そしてこうしたことにより、政府の神道に対する扱いが徐々に変化していってしまったのです。

この後、明治政府の推し進めた国家神道は二転三転していきます。

神社の最高官庁が神祇じんぎ事務課から神祇じんぎ事務局にし、神祇じんぎ官も神祇じんぎ省・教部省・内務省の寺社局としていきました。

つまり、神道を政治から逆に離そうとしていったのです。

当初明治政府が行った祭政一致の政策は、国家としての神道とはいっても、実は計画性をもって組織を再編したわけでもなく、ざっくりとそういった概念があっただけだったのでした。

かつての大和王権を再現しようと律令制を取り入れ、太政官・神祇官を設けその組織づくりをし進めたはずが、結果明治政府の国家神道政策は、この後さらに変貌へんぼうし暴走していきました。

大教宣布たいきょうせんぶ運動の失敗

大教宣布たいきょうせんぶ運動の始まりだった「大教院」は、神祇官じんぎかん神祇省じんぎしょう・教部省と変わったあとに作られた組織でした。

しかし、この大教院は全国的に宣教(教えを広める)するためには人手不足で、神職だけでは運営もままならなかったために結果、仏教の僧侶や、落語家・歌人・俳人までもを動員することになりました。

大教宣布たいきょうせんぶ運動とは、祭政一致の思想を指す大教たいきょうを国民に広げることをいいます。

大教宣布運動で教えたのは、神道の内容にとどまらず、一般道徳や近代国家の権利義務そして富国強兵論など多岐たきにわたりました。

つまりそれは実際には、宗教的説教というより宗教・道徳・政治的側面をもつ啓蒙けいもう運動でしかなかったのです。

しかし大教院は、そのはじめから雑多な職種の人々を寄せ集めた団体でしたので、当然様々な軋轢あつれき(お互いがいがみ合うこと)が生じていきました。

そして、それが維持できなくなった明治8年(西暦1875年)4月、大教院は解散・閉鎖となります。

その後組織としては残り、神道事務局(後に神道本局)となりました。

これにより、教部省は明治10年(1877年)1月11日に廃止となり、その教導職にあった人々は神道事務局に合流したのでした。

やがて神道事務局も廃止となり、神道教派(教派神道)が出来ていきます。

これはかつての神道宗派(神仏混淆)とは違い、もともとは国教としての神道だったものが変化した、特殊な神道宗派でした。

政府による国家神道への強制

他にも明治政府は、教育機関でも国家神道を推し進めようとしていました。

歴史科目では、日本書紀・古事記の履修りしゅうを必須としたのです。

これは、現代のような教育指導要綱などにある推奨というものとは比ではなく、国からの命令でした。

そして、当然違反者には重罰(長期間の投獄など)が課されました。

教職員にも、明治天皇の肖像画を御真影ごしんえいとして掲げ、最敬礼することを義務付けました。
そして、これをおろそかにした者にも重罰を与えたのでした。

例えば、御真影を扱うときには必ず白手袋をしなければならないとし、それをおこたったものは投獄されたりしたのです。

国家神道から国体主義へ

当初、明治政府が神道を国家の形成に取り入れたのは、あくまで欧米に対抗しようとし、対外的に対等な外交に必要だと考えたからでした。

それはしかし、政府の二転三転する政策や、祭政一致により国民を社会的な精神統合へと教導させようとしたことなどから、国家思想という民族主義(ナショナリズム)へと変貌へんぼうしていってしまうのでした。

しかも天皇制民主主義という後から考えると矛盾した思想であったために、各方面から批判や離反が相次ぎ、結果国家神道は崩壊したのでした。

そもそも、国家神道という名称も近年(第二次世界大戦後)に名付けられたもので、当時はそこまで確固たる計画をもって国家の形を創ろうとしたわけではなかったのです。

江戸幕府が消滅したことにしても、江戸末期に起こった復古神道や天皇制復活の動きにより、新しい国を創ろうという大衆思想に乗って突き動かされてしまったとも言えます。

国体主義から神国日本へ

明治末期になると、天皇に対する考え方も変わっていきました。

神道思想を国で管理して強制をしていった結果、天皇を神とする「神国日本」というナショナリズム的意識が一般庶民に浸透していってしまったのです。

それは、かつて神道が信仰から宗教へと変えられたように、国家という権力の強制により宗教から思想へ、そして観念論へと変わっていった大きな転換期でした。

当初明治政府が考えていたのは、神道を利用して「日本は天照大御神あまてらすおおみかみの子孫である天皇が統治する神の国である。」という思想を浸透させることにより、君主である天皇のもと一致団結させ、国威啓発をしようということでした。

しかし、それはやがて国民に浸透していった結果、次第に「神に率いられた日本民族」という選民意識に変わっていってしまいました。

そしてそれは、「天皇は親であり、国民は子である。」というような国家家族論に変わっていきます。

そうして世界大戦の前頃には、「現人神あらひとかみである天皇のために戦い命をささげることこそが、神国日本に生まれた日本人の美徳である」という、国民統制のための観念論にかわっていってしまいました。

結果的に明治政府は、万世一系の天皇によって統治される国という国体思想を広めてしまったことは間違いありません。

そうしてそこには、すでに神道という宗教はなく天皇制君主国家を目指す政府があるだけでした。

大正から昭和に入る頃になると、神国思想は少しずつ拡大解釈されていきます。

現御神あきつみかみ現人神あらひとかみ)」や「八紘一宇はっこういちう」などの言葉も使われるようになっていきます。

八紘一宇はっこういちうとは

日本書紀にある文章の一節です。

八紘はっこう(天地を結ぶ8本の綱)をおおひいえにせむ」
と書かれています。

その意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすことです。

この言葉は、昭和15年(西暦1940年)8月、第二次近衛内閣が基本国策要綱で、「皇国こうこく(天皇の治める国)の国是こくぜ(国の基本的方針)は八紘はっこう一宇いちうとする肇国ちょうこく(建国)の大精神に基づき大東亜新秩序(大東亜共栄圏=欧米の植民地支配に代わり、日本中心の東亜諸民族による共存共栄)を進める」と述べたことにより広まりました。

そして、第2次世界大戦中に日本が中国や東南アジアへ侵略する際に、正当化するための国家スローガンとして用いられました。

神国日本の末路

やがて日本は、大東亜戦争(第二次世界大戦)という最悪の事態へと突き進んでいってしまいます。

この頃にはほとんどの日本人は「神国日本は神州不滅しんしゅうふめつ(神国は不滅であるという観念論)であり、神に守られている我々は戦いに負けるはずはない」と信じ込むに至っていました。

神国思想は極度に行き過ぎてしまい、いわゆる神懸かみがかり的なものにまでなってしまっていたのです。

そうしたことから、合理的な思考を持っていたはずの軍人の中にも、「日本は神国であるから、負けることはあり得ない」と考えていた人も大勢いました。

そして、神国日本には、悲惨な末路が待っていました。

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Posted by まれびと