【神道の年中行事】祈年祭・神嘗祭・新嘗祭・煤払い・大祓・月次祭

神道

通常私たちが、年中行事といわれて思い浮かべるのは、お正月やお盆・ひな祭りやこどもの日などです。
しかしそうした年中行事は、神道と仏教の融合由来のものや、また大陸から渡来した道教・儒教の影響によりできた風習です。
つまり、現代日本の年中行事はいろいろな伝統が混ざり合って出来たものなのです。

ここでご紹介するのは、この列島に神道という名前が付く前からあった列島独自の信仰の風習を元にした年中行事です。
そしてその信仰は、自然のあらゆるものを神としてうやまい・たたえ・あがめ・まつるといった儀式でした。

この信仰に、大和王権やその最高権力者である天皇は、神道という名前を付けて儀式風習を形式化しました。
そして、天皇家の始祖しそ(祖先)にまつわる神々をまつるための儀式にしたのでした。
また、この形式化された儀式は、当時の東アジア大陸に伝わる二十四節気にじゅうしせっき十干十二支じっかんじゅうにしなどの祭祀の規定を取り入れたものでした。

こうして出来た年中行事が、今に伝わる神道の年中行事の原型です。

そして神道の年中行事は、全国で行われるようになりました。
しかし、それは大和王権の天皇制集権国家を確立するために創られたものだったため、武家に権力が移ると宮中において神祇官が執り行うのみとなり、その後戦国時代になると一時期途絶えてしまいます。

その後江戸時代に入り、一部国学者たちが復古神道を唱えることにより、神道という宗教を思想的に見直そうという機運が高まってきました。
そして明治に入り、政府により神道を国家宗教とすることにより日の目を見るようになると、これらの儀式は復活します。
しかし再び天皇制集権国家の様相を示し、第二次世界大戦の敗戦においてGHQがこれを否定したため、現在では皇族の私的行事として行われているのです。

ただ、いまでも庶民の年中行事としても伝わっているというのは、この儀式の起源が普通の人々の信仰から始まっているという所以ゆえんでしょう。

それでは、神道由来の年中行事をいくつかご紹介しましょう。

祈年祭としごいのまつり

年を祈る祭りと書く祈年祭としごいのまつりは、旧暦2月4日に宮中で五穀の豊作を祈る神事のことです。

古くからとし(年・歳)とは、穀物や稲が一年周期で作られていたことを意味していました。
また漢語では、としとは単なるこよみとしての一年のことではなく、いねに粘りの意味を持つ人という符が結合した語で、穀物が成熟するまでの周期を表現しています。
そして歳とは、ほこ(刃物の意味)と歩(時の流れの意味)が組み合わされた語で、刃物で歩(穂)を刈り取るまでの時間を表しています。

そしてこの年を祈願する儀式、つまり豊作祈願をする儀式のことを 祈年祭としごいのまつり といいます。

祈年祭としごいのまつりという宮中行事

かつて農耕が生活のすべてであった時代には、豊作を祈ることは取りも直さず国家の安泰や国民の繁栄を祈ることでした。
そのため国家として、祈年祭としごいのまつりは何をおいてもまず行うべき行事でした。

そのため祈年祭は国家規模で行われ、奈良時代の延喜神名式えんぎじんみょうしき(当時の朝廷が、神威を認めた神社を規定した格式のこと)によると、神宮を始め全国2,861社の神々に 幣帛へいはくたてまつられたとされます。

幣帛へいはく とは、神への捧げもののことです。
布帛ふはく(織物)・衣服・武具・神酒みき神饌しんせん(主食の米に加え、酒・海の幸・山の幸・その季節に採れる旬の食物・地域の名産・祭神と縁のあるもの)などの総称として言われました。

特に神宮じんぐうには天皇が勅使ちょくし(天皇・皇帝・王など君主が出す使者のこと)を差遣さけん(使いの者をさしつかわすこと)されてお祭りが行われていました。
この場合の神宮とは伊勢神宮石上神宮出雲大神宮(出雲大社)大神宮(伊勢神宮内宮)鹿島神宮香取神宮の六社を指します。

明治時代には、皇室祭祀令こうしつさいしれい(明治41年9月19日に発布された皇室の祭祀に関する法令)において宮中三殿きゅうちゅうさんでんでも2月17日に祭典を行うことが定められました。

宮中三殿きゅうちゅうさんでんとは、皇居にある賢所かしこどころ皇霊殿こうれいでん・神殿の総称のことです。
吹上御苑ふきあげぎょえんの東南にあります。

祈年祭としごいのまつりの原点・予祝儀礼よしゅくぎれい

この祈年祭としごいのまつりは、神道という名前が付き宮中行事になる以前の信仰では、春の 予祝儀礼よしゅくぎれい でした。

予祝儀礼よしゅくぎれい とは、豊作を祈って一年間の農作業や秋の豊作を模擬実演する、呪術的な農耕儀礼のことです。
あらかじめ期待する結果を模擬的に表現すると,そのとおりの結果が得られるという意味で行われました。
小正月に集中的に行われ,農耕開始の儀礼ともなっており、一種の占いを伴うこともありました。

今でもこの信仰は続いており、地方によって庭田植にわたうえ繭玉まゆだま粟穂稗穂あわほひえぼ鳥追とりおい成木責なりきぜめなどいろいろな行事があります。

神嘗祭かんなめさい

その年の初穂を天照大御神あまてらすおおみかみに奉納する行事です。

大和王権の頃から神嘗祭かんなめさいには皇室から神宮へ幣帛使へいはくしが派遣されていましたが、応仁の乱以降は神道自体が衰退していたため、たびたび中断していました。
しかし、1647年(正保4年)に幣帛使へいはくし発遣はっけん(使者を送り出すこと)が復活して以降は、中断なく派遣が行われています。

江戸時代までは旧暦9月11日に勅使ちょくし(天皇・皇帝・王など君主が出す使者のこと)に御酒みき神饌しんせん(神に供える供物、御饌みけあるいは御贄みにえともいいます)を授け、旧暦9月17日に奉納していました。
1873年(明治6年)太陽暦が採用されると新暦の9月17日に実施されるようになりました。
しかし、新暦の9月17日にはまだ稲穂の生育が不十分な時期だとして、1879年(明治12年)以降は月遅れとして10月17日に実施されるようになりました。

1871年(明治4年)以降は皇居の賢所かしこどころでも神嘗祭かんなめさいの儀式が行われるようになりました。
その際には、儀式に先立って天皇が宮中三殿の神嘉殿南庇しんかでんみなみびさしで伊勢神宮の方向に向いて遥拝ようはい(はるかに隔へだたった所からおがむこと)していました。
その後、1908年(明治41年)9月19日制定の皇室祭祀令では大祭に指定されます。
第二次世界大戦後廃止され、以降は皇室神道として宮中および神宮では従来通りの神嘗祭かんなめさいが行われています。

神嘗かんなめ とは、神のあえ(神を食べ物でもてなすこと)が語源とされます。
また新殻しんこく(その年にとれた穀物、特に新米)を意味するにえが転じたとする説もあります。

神宮では、神嘗祭かんなめさいのときに御装束・祭器具を一新しますので、神宮の正月ともいわれています。

また伊勢神宮の式年遷宮せんぐうは、大規模な神嘗祭かんなめさいとも言われ、式年遷宮後最初の神嘗祭を大神嘗祭かんなめさいとも呼びます。

伊勢地方では、この祭りをおおまつりと呼び、奉祝の行事を行います。
この行事では、伊勢神宮の神職や周辺の人々が祭りが終わるまで新穀を口にしないという儀式がありました。

新嘗祭にいなめさい

にいなめのまつり・しんじょうさいとも言います。
一年の収穫を祝う収穫祭の行事です。

11月23日に天皇が五穀の新穀を 天神地祇てんじんちぎ に勧め、自らもこれを食してその年の収穫に感謝するという行事です。

天神地祇てんじんちぎ とは、古事記・日本書紀に登場する二種類の神様、天神てんじん天津神あまつかみ=天の神)と地祇ちぎ国津神くにつかみ=地の神)とを合わせた言い方です。
略して神祇じんぎとも言い、一般的には八百万の神とされます。

この儀式は宮中三殿の近くにある神嘉殿しんかでんで行われます。

天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭にいなめさい大嘗祭だいじょうさいと言います。

明治時代には祝日に指定されていました。

煤払すすはら

煤払すすはらいは煤掃すすはきともいわれ、正月を迎えるにあたって、12月13日に家の内外を大掃除することをいいます。
この煤払いが、12月13日に行われる予定になったのは、この日がかつて正月の事始ことはじめといって、正月の準備を始める日であったからでした。

そもそも煤払いとは、単なる掃除ではなく、年神さま(歳徳神としとくじんともいわれ、新しい年の五穀の豊作を約束してくれる神さま)をまつる準備のための、宗教的な行事だったのでした。
13日に煤払すすはらいを済ませてしまうと、正月までにはまだ日数があるために、この日は神棚と仏壇の掃除のみを行い、家の内外の掃除は、それ以降の適当な日に行っていました。

これがやがて、暮れの大掃除という形になっていったのですが、現在では宗教的意味合いはすっかり失われてしまいました。

Posted by まれびと