【神仏混淆】~法華神道・両部神道・山王神道・吉田神道・伯家神道~
大和王権が創った神道は、渡来した仏教という宗教の影響を受けて、この列島の歴史の中で徐々に姿を変えていきました。
それが 神仏混淆 です。
神仏混淆により神道宗派が生まれていった要因は、主に仏教側からのアプローチによるものでした。
伝来当時は、この列島古来の神々を重視する豪族たちがほとんどで、仏教の神様たちは蕃神(蛮神・隣の国の神)や今来神(客神)などと呼ばれ、毛嫌いされていました。
そうしたことから、外来宗教である仏教を支持する人々が、日本独自の神道という宗教と融合することで日本国内での宗教的正当性を担保しようとしたのです。
また、仏教には神道にないものを補うという利点もありました。
それは、創唱宗教(特別な一人の創唱者によって提唱された宗教)としての特性でもある教祖・教義・経典でした。
神道は人々の共感から産まれた自然宗教としての信仰でした。
ただそれにより、苦しみからどう逃れるかといった教義などはありません。
そのため、仏教の教祖である釈迦が伝える修行の末に悟りを開いて解脱するという教義は、神道の信仰と融合することができたのでした。
こうして、混淆により習合していった神と仏は、しかし神も苦悩するとする神身離脱という考え方が広まり、神社の境内に寺が設けられたり(神宮寺など)寺の境内に神社の神様を勧請(他の神社の神様を迎え入れること)し、護法善神(仏教の法を護る神道の神々のこと)として祀られたりするようになりました。
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法華神道
仏教の一派日蓮宗の法華宗側が唱えた宗派です。
神道の三十柱の神々が、交代で仏教の法華経という経文を護ってくださっているとする信仰です。
神道の神々を三十番神と呼び、毎日交代で仏法を保護する諸天善神としたのです。
この諸天善神の概念は、仏教が生まれたインドでも伝来した中国でもあったものでした。
インドではバラモン・ヒンドゥー教の神々が、中華王朝では唐の阿育王山・守護神の大権修利菩薩などの神がそれに当たりました。
日本では平安時代に始まり、鎌倉・室町時代には広く信仰されました。
しかしその後、明治時代の神仏分離令により衰退していきました。
両部神道
仏教の一派真言宗の密教部派が唱えた宗派です。
本地垂迹説を唱えました。
本地とは本当の姿は仏であるということで、垂迹とは、仏が仮の姿として日本の神の姿で人々の前に現れているという事だとしたのです。
これにより、伊勢神宮の内宮と下宮を真言宗の胎蔵曼荼羅と金剛曼荼羅に例えました。
そして日本書紀の三神や古事記の天神七代を仏教のそれぞれの仏に例えもしました。
そうしたことにより、神道すなわち仏教であるという説を唱えたのでした。
ただその後本来の神道(天皇を神とする神道)にはそぐわないとする意見が巻き起こり、明治時代に入り衰退していきました。
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山王神道
仏教の一派天台宗が唱えた宗派です。
天台宗の宗祖最澄が、遣唐使として唐からの帰国後、天台宗と神道・日本古来の山岳信仰とを合わせて日吉山権現として、比叡山に祀ったのが始まりです。
その後江戸時代になると、天海という僧が、徳川家康を日光東照宮に弔い権現という神としたのを機に山王一実神道を提唱しました。
そしてそれにより、全国に東照宮という神社が建立されていくことになりました。
明治以降は仏教色が廃され現在では山王権現として、滋賀県大津市の日吉大社に総本山を持つ神道系信仰となっています。
伊勢神道
伊勢神宮・外宮の神官である度會家行が唱えた神道の一派です。
下宮神道・渡会神道・社宮神道とも言います。
神道五部書をもとに、反本地垂迹説を唱えました。
神道五部書とは
・天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記
・伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記
・豊受皇太神宮御鎮座本紀
・造伊勢二所太神宮宝基本紀
・倭姫命世記
の五書を言います。
反本地垂迹説とは
神道の神は仏教の仏に姿を変えて衆生(生命のあるすべてのもの・人間をはじめすべての生物)を救うという説です。
しかし、江戸の中期以後、神道五部書は書物の間での転用重複部分がかなり多いとして、偽書であると激しく糾弾されました。
その後儒教と習合することにより姿を変えましたが、伊勢神道自体は衰退していきます。
ただその思想は、後の神道に大きな影響を与えていくこととなりました。
吉田神道
吉田神社の神職吉田兼倶(卜部兼倶)が唱えた神道の一派です。
唯一神道、卜部神道、元本宗源神道、唯一宗源神道ともいいます。
仏教を花実・儒教を枝葉・神道を根と例え、それぞれの思想を取り入れた習合神道です。
他にも陰陽道や道教などを取り入れ、伊勢神道が衰退すると神道の一派として広く信仰されるようになりました。
そもそも神道は皇室が主家であり、長く白川家が実務担当の役にありました。
しかし、江戸時代に徳川幕府が寛文5年(1665年)に制定した諸社禰宜神主法度で、吉田神道が神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置きました。
それにより吉田神道は、神道の主流派として明治以降近代にいたるまで広く信仰されたのです。
伯家神道
白川神道とも呼ばれます。
第65代・花山天皇の子孫で神祇伯(日本の律令官制における神祇官の長官)を世襲した白川家(清仁親王の王子)によって受け継がれた神道の一派で、皇室の祭祀を司っていました。
時代が下るとともに神道宗派が乱立し、また吉田神道が江戸幕府に任官されたことにより衰退していきます。
明治には当時の白川家当主・白川資訓が子爵位の華族となりました。
跡を継いだ白川資長は戦後、神社本庁の参与を務めましたが、彼には実子がいなかったため、彼が昭和34年(西暦1959年)に亡くなると事実上白川家は断絶となりました。
神仏習合
こうして、大和王権が仏教と神道の両方を推していったことにより、神仏が融合した特殊な信仰が人々の間に広まっていきました。
ただ現代では、この頃の神仏習合は後の時代と区別するために、神仏混淆(神と仏が入り混じった状態)と呼ばれます。
そうして、神道は仏教との習合により混迷していきました。
そしてそれとは対照的に、仏教そのものは発展していったのです。
その後時代が下ると、神社の中に寺院があったり寺院の中に神社があったりということが当たり前になってきて、一般庶民も区別しなくなってきます。
この時代(主に江戸時代)は、神が主で仏が従としてその立場が逆転していったため、現在では神仏習合の時代と呼ばれます。
そしてこの神仏習合は、明治政府が神仏分離令(神道と仏教を別物として扱い、切り離そうとする政令)を発布するまで続きました。
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