【神道の年中行事】祈年祭・神嘗祭・新嘗祭・煤払い・大祓・月次祭
通常私たちが、年中行事といわれて思い浮かべるのは、「お正月」や「お盆」・「ひな祭り」や「こどもの日」などでしょう。
ただ、こうした年中行事は、太古の昔にはこの列島にはなかったものです。
実は、今私達がよく知る年中行事は、その後の時代に仏教・道教・儒教などの影響によってそれらが融合した風習だったのでした。
神道の年中行事の始まり
太古の昔、この列島の人々の信仰は、「自然のあらゆるものを神とみなして、畏れ・敬い、神のための祭壇を設え、そこで神を称え・崇め・祀る」というものでした。
では、神道の年中行事はいつから始まったのでしょうか。
それは、3世紀頃大和王権(大和朝廷)が成立したときに始まります。
大和王権は、それまであった支配下の各地の集落が祀る自然信仰を、その最高権力者である王(天皇)が祭ることとし、それに「神道」という名称をつけ、儀式風習を強制的に統一させようとしたのでした。
この神道の儀式は、列島を支配した天皇家の始祖(祖先)にまつわる神々を祀るための儀式でもありました。
つまり大和王権は、これにより支配下の集落全ての人々の意識を変えさせ、従わせようとしていたのでした。
その後、この儀式は、当時東アジア大陸から伝わっていた「二十四節気」や「十干十二支」などの祭祀の規定を取り入れ、その内容が複雑化していき、やがて律令制とともに天皇制集権国家としての祭祀が確立していきます。
そして、大和王権の支配が広がるとともに、この神道の儀式は年中行事として、全国で行われるようになっていきます。
これが、今に伝わる神道の年中行事の原型です。
その後の経緯
しかしそもそも「神道」は、大和王権の天皇制集権国家を確立するために創られたものだったため、武家に権力が移ると、皇家の宮中において神祇官が執り行うのみとなりました。
その後、戦国時代になりその儀式も一時期途絶えてしまいます。
ただこの間にも、一般庶民の間には、仏教・道教・儒教などと融合した信仰による年中行事が浸透していきました。
この頃の信仰が、今私達がよく知る「お正月」や「お盆」・「ひな祭り」や「こどもの日」などの年中行事の原型なのでした。
しかし江戸時代に入ると、一部国学者たちが復古神道を唱え、神道という宗教を思想的に見直そうという機運が高まっていきます。
そうして明治に入り、政府は神道を国家宗教とすることとしました。
これにより、神道は日の目を見その儀式は復活しました。
ただ、それまで庶民の間で行われていたいろいろな信仰が融合した民間信仰は、それにより否定されてしまうことになったのですが。
しかしその後日本は、天皇制集権国家から神国日本へと様相を変え、世界大戦へと突き進んでいきます。
1945年、日本は第二次世界大戦において敗戦し、GHQ(連合軍総司令部)は「神道指令」の中で「国家としての神道」を一般庶民に強要することを禁止します。
そして一般庶民の間には、かつての民間信仰による年中行事が復活していきました。
またそれにより現在、神道本来の儀式は皇族のみの私的行事として行われているのです。
「参考記事」
神道本来の年中行事
では、大和王権の「養老律令」にある「神祇令」をもとに、神道本来の年中行事を民間行事も交えていくつかご紹介しましょう。
祈年祭
かつて農耕が生活のすべてであった時代には、豊作を祈ることは取りも直さず国家の安泰や国民の繁栄を祈ることでした。
そのため国家として、農耕の初めにその年の豊作を神に祈る事は、何をおいてもまず行うべき行事でした。
この行事を、年を祈る祭りと書き「祈年祭」といいます。
古くからとし(年・歳)とは、穀物や稲が一年周期で作られていたことを意味していました。
東アジア大陸で王朝を築いた、漢民族の言語である漢語では、年とは単なる暦としての一年のことではなく、禾に粘りの意味を持つ人という符が結合した語で、穀物が成熟するまでの周期を表現しています。
そして歳とは、戉(刃物の意味)と歩(時の流れの意味)が組み合わされた語で、刃物で歩(穂)を刈り取るまでの時間を表しています。
こうした意味から、この年・歳の始まりに祈願をする儀式、つまり豊作を祈願する儀式のことを 祈年祭 といいます。
祈年祭という宮中行事
祈年祭は、旧暦2月4日に宮中で五穀の豊作を祈る神事のことです。
この祈年祭は、大和王権(大和朝廷)のもとで国家規模で行われました。
延喜式神名帳によると、『神宮を始め全国2,861社の神々に 幣帛 が奉られた』とされます。
律令制という政治制度の中で、特定の法令の施行に関する事柄を、詳細に規定した規則のために作られた法典のことです。
50巻に渡り、祭祀の儀式とその関係官庁について詳細に定められています。
平安中期の延喜5年(西暦905年)60代醍醐天皇の命により藤原時平、忠平らが編修しました。
それまであった、弘仁式・貞観式などの条文を集大成したものです。
延長5年(西暦972年)完成。
康保4年(西暦967年)施行。
布帛(織物)・衣服・武具・神酒・神饌(主食の米に加え、酒・海の幸・山の幸・その季節に採れる旬の食物・地域の名産・祭神と縁のあるもの)などの総称として言われました。
特に「神宮」には天皇が勅使(天皇・皇帝・王など君主が出す使者のこと)を差遣(使いの者をさしつかわすこと)されてお祭りが行われていました。
この場合の「神宮」は、
・石上神宮
・出雲大神宮(出雲大社)
・大神宮(伊勢神宮内宮)
・鹿島神宮
・香取神宮
の六社を指します。
明治時代には、皇室祭祀令(明治41年9月19日に発布された皇室の祭祀に関する法令)において宮中三殿でも2月17日に祭典を行うことが定められました。
吹上御苑の東南にあります。
天皇の始祖である天照大神の御霊代(仏教の位牌にあたるもの)とする神鏡(八咫鏡)が祀られている所です。
内侍所ともよばれました。
祈年祭の原点・予祝儀礼
この祈年祭は、神道という名前が付き宮中行事になる以前の信仰では、春の 予祝儀礼 でした。
あらかじめ期待する結果を模擬的に表現すると,そのとおりの結果が得られるという意味で行われました。
小正月に集中的に行われ,農耕開始の儀礼ともなっており、一種の占いを伴うこともありました。
今でもこの信仰は続いており、地方によって庭田植・繭玉・粟穂稗穂・鳥追・成木責などいろいろな行事があります。
参考動画
神嘗祭
その年の初穂を天照大御神に奉納する行事です。
大和王権の頃から神嘗祭には皇室から神宮へ幣帛使が派遣されていましたが、応仁の乱以降は神道自体が衰退していたため、たびたび中断していました。
しかし、1647年(正保4年)に幣帛使の発遣(使者を送り出すこと)が復活して以降は、中断なく派遣が行われています。
江戸時代までは旧暦9月11日に勅使(天皇・皇帝・王など君主が出す使者のこと)に御酒と神饌(神に供える供物、御饌あるいは御贄ともいいます)を授け、旧暦9月17日に奉納していました。
1873年(明治6年)太陽暦が採用されると新暦の9月17日に実施されるようになりました。
しかし、新暦の9月17日にはまだ稲穂の生育が不十分な時期だとして、1879年(明治12年)以降は月遅れとして10月17日に実施されるようになりました。
1871年(明治4年)以降は皇居の賢所でも神嘗祭の儀式が行われるようになりました。
その際には、儀式に先立って天皇が宮中三殿の神嘉殿南庇で伊勢神宮の方向に向いて遥拝(はるかに隔たった所から拝むこと)していました。
その後、1908年(明治41年)9月19日制定の皇室祭祀令で大祭に指定されます。
第二次世界大戦後廃止され、以降は皇室神道として宮中および神宮では従来通りの神嘗祭が行われています。
また、新殻(その年にとれた穀物、特に新米)を意味する贄が転じたとする説もあります。
神宮では、神嘗祭のときに御装束・祭器具を一新しますので、神宮の正月ともいわれています。
また伊勢神宮の式年遷宮は、大規模な神嘗祭とも言われ、式年遷宮後最初の神嘗祭を大神嘗祭とも呼びます。
伊勢地方では、この祭りをおおまつりと呼び、奉祝の行事を行います。
この行事では、伊勢神宮の神職や周辺の人々が祭りが終わるまで新穀を口にしないという儀式がありました。
新嘗祭
にいなめのまつり・しんじょうさいとも言います。
一年の収穫を祝う収穫祭の行事です。
11月23日に天皇が五穀の新穀を 天神地祇 に勧め、自らもこれを食してその年の収穫に感謝するという行事です。
略して神祇とも言い、一般的には八百万の神とされます。
この儀式は宮中三殿の近くにある神嘉殿で行われます。
天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を大嘗祭と言います。
明治時代には祝日に指定されていました。
煤払い
煤払いは煤掃きともいわれ、正月を迎えるにあたって、12月13日に家の内外を大掃除することをいいます。
この煤払いが、12月13日に行われる予定になったのは、この日がかつて正月の事始めといって、正月の準備を始める日であったからです。
そもそも煤払いとは、単なる掃除ではなく、年神さま(歳徳神ともいわれ、新しい年の五穀の豊作を約束してくれる神さま)をまつる準備のための、宗教的な行事だったのでした。
13日に煤払いを済ませてしまうと、正月までにはまだ日数があるために、この日は神棚と仏壇の掃除のみを行い、家の内外の掃除は、それ以降の適当な日に行っていました。
これがやがて、暮れの大掃除という形になっていったのですが、現在では宗教的意味合いはすっかり失われてしまいました。
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