【神道の年中行事】祈年祭・神嘗祭・新嘗祭・煤払い・大祓・月次祭
大祓
おおはらえとも言います。
6月のものを夏越の祓(名越の祓・夏祓・夏越神事・六月祓)、12月のものを年越の祓と呼びます。
もともとは、衣服を毎日洗濯する習慣もなく、また自由に使える水が少なかった時代に、「半年に一度新しい物に替える事で、残りの半年を疫病を予防して健康に過ごせるように」という意味で行われていた、民間伝承の年中行事でした。
また、夏越しの時期は多くの地域で梅雨の時期にあたり、祭礼が終わると梅雨明けから猛暑へと季節が移り、旱の時期を迎えることになりますので、この過酷な時期を乗り越えるための戒めでもありました。
その後、神道が民間に定着するに従って、半年ごとの犯した罪や穢れを除き去るための宗教的な除災行事として広まっていきました。
神道行事としての大祓
大宝元年(西暦701年)の大宝律令によって、正式な宮中の年中行事に定められました。
日本書紀にはこう書かれています。
ただ現在の大祓の行事は、その後改定された養老律令によるものです。
発布された「神祇令」の十八条にはこう書かれています。
東西の文部(西文氏)、祓の刀を上ぐり(奉り)、祓詞を讀む(読む)。
訖(終わり)に、百官(諸々の役人)の男女は、祓所に聚集(集まり)し、中臣祓詞を宣り(述べ)、卜部解除をする。
この祓所は、朱雀門が多く使われていました。
朱雀門前の広場に親王、大臣ほか京にいる官僚が集って大祓詞を読み上げ、国民の罪や穢を祓うとしました。
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しかし、室町時代に起きた応仁の乱で宮中行事が廃絶して以降は、神仏習合の影響で民間でも行われることはほとんどなくなりました。
その後、元禄4年(1691年)に再興されたものの内侍所や一部の神社に限り、夏越神事・六月祓と呼ばれて形式的な神事のみを執り行うなど、わずかしか行われていませんでした。
明治4年(1871年)、明治天皇は宮中三殿賢所の前庭にて大祓を400年ぶりに復活させ、翌明治5年に太政官布告を出します。
それにより夏越神事・六月祓の呼称を禁止して大祓を復活させる事にして、大宝律令以来の旧儀の再興を命じます。
その後大祓は、大正、昭和、平成の大嘗祭(天皇が即位後に初めて行う新嘗祭)に際しても行われました。
またそれまでは慣例として、皇室での大祓では参列する皇室の範囲を成年男子の親王に限っていましたが、平成26年(2014年)6月10日宮内庁より、男性皇族が実質少なくなったことを理由に、以降の大祓への参加を成年女性の皇族にまで範囲を広げると発表しました。
これにより神仏分離が行われた全国の神社でも、毎年の大祓が行われるようになりました。
また、第二次世界大戦後には、夏越神事・六月祓の呼称も一部では復活して現在に至っています。
民間行事としての大祓
夏越の祓では、多くの神社で茅の輪潜りが行われます。
参道の鳥居や笹の葉を建てて注連縄を張った結界内に茅で編んだ直径数メートルほどの輪を建て、ここを氏子が正面から最初に左回り、次に右回りと 8 字を描いて計3回くぐることで、半年間に溜まった病と穢れを落とし、残りの半年を無事に過ごせることを願う行事です。
夏越の大祓の由来
かつては、茅の輪の小さいものを腰につけたり首にかけたりしていたこともありました。
これは、蘇民将来伝説に由来するものです。
そこで貧しい兄の蘇民将来を訪ねると、彼の家族は粗末ながらもてなしました。
後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に目印として茅の輪を付けさせ弟の巨旦将来の一族を皆殺しにして滅ぼしました。
そして武塔神は、みずから速須佐雄能神と正体を名乗り、以後茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする伝説です。
この話は「釈日本紀」にある「備後国風土記」に書かれている疫隈国・素盞嗚神社の逸文として、鎌倉時代の末期に京都の平野神社の神職である卜部兼方が著したものが由来となっています。
その後、神仏習合が当たり前になってくると、「武塔神は、仏教の牛頭天王である」とされました。
そして、茅の輪は「蘇民将来」と書かれた木の札ということになり、今に至っています。
三重県伊勢市内では、この木の札に「蘇民将来子孫家門」と書き正月の注連縄に取り付け、その注連縄を一年中飾っておくという風習があります。
これには、「蘇民の子孫の家」だということがわかるようにして、悪いことがおこらないようにという意味があります。
また、武塔神が速須佐雄能神と名乗ったという伝説から、多くの神社で祭神としている素戔嗚尊と習合(融合)しました。
そして、素戔嗚尊が古事記の中で伊邪那岐神に海原を治めよと命ぜられたということから、水神(龍神)ともされました。
その後「茅の輪」は、とぐろを巻いた蛇もしくは龍の形であり、それはスサノオの姿を形取った形代(身代わり)という意味を持つようになります。
こうしたことから、同じように龍神をかたどった注連縄と習合することで茅の輪は大型化し、儀式の際にくぐるようになりました。
茅の輪くぐりの作法
一般的に神社によってまちまちなので、その神社の神職の方にお聞きすることが望ましいです。
例えば、奈良県の大神神社では、茅の輪は榊・杉・松をかかげた3連になっており、周り方も他の神社とは異なり、杉の輪 → 松の輪 → 杉の輪 → 榊の輪 の順にくぐることになっています。
また出雲大社では、茅の輪は〇形ではなくU形をしていてこれを神職が両手で持ち、参詣者は縄とびをするように飛び越えて、茅を跨ぐと同時に両肩にかついた茅を落とします。
一つ注意したいのは、茅の輪の"茅"を引き抜き持ち帰ってお守りにする人もいるようですが、「茅の輪の"茅"はくぐった人たちの罪や穢れ・災厄が茅に遷されており、それを持ち帰ることは他人の災厄を自宅に持ち帰ることになる」ので、やってはいけないとされてることです。
大祓の呪詛
大祓は、もともと祝詞にある「東文忌寸部献横刀時呪」に由来します。
大祓の前に大和と河内の文部が内裏へ参内し、天皇に祓刀と人形を奉って祝詞を奏上し、天皇は自分の息を吹きかけて自身の災禍を移し憑けて、その後流しました。
これは後に陰陽道でも呪詛に用いるようになります。
現在では神社から配られた人形代に息を吹きかけ、また体の調子の悪いところを撫でて穢けがれを遷した後に川や海に流す、ということが行われています。
この流すことが後に願掛けになり、同時期に行われる七夕祭と結びついて短冊を流すようになりました。
一部に人形代や短冊、笹竹を焚き上げるということが行われますが、これはもとは正月に行われる「どんと焼き」や密教に由来する行事で、神仏習合に伴い混用されるようになりました。
その他の大祓の風習
京都では夏越祓の時期に「水無月」という和菓子を食べる習慣があります。
「水無月」は白いういろう生地に小豆を乗せ、三角形に切り分けられたお菓子です。
水無月の上部にある小豆は悪霊ばらいとして、三角の形は暑気を払う氷を表しているといわれます。
また、近年「夏越ごはん」といって夏野菜の丸いかき揚げを雑穀米にのせた丼飯を、行事食として広めようという動きもあります。
高知県下では、夏越祓のことを「輪抜け様」と呼んでいます。
月次祭
古くは毎月行われ、その後延喜式で6月と12月の11日に行うことが規定されて、朝廷と伊勢神宮で行われました。
伊勢神宮では6月・12月の月次祭と神嘗祭の3つの祭礼を三節祭・三時祭と言われます。
朝廷では神祇官が11日の朝に、畿内304座の神の祝部に幣帛を分け与えました。
これを班幣といいます。
また、夜には中和院の神嘉殿で、前年に収穫した穀物(旧穀)を天皇が神と一緒に食する神今食が行われました。
その後班幣は伊勢神宮のみとなり、室町時代に入ると応仁の乱などにより廃されるようになりましたが、明治以降に復活しました。
なお現在では、全国の多くの神社でも毎月一定の日を決めて行われています。
神道の年中行事から見える、日本人の心の原点
神道の宮廷行事は、明治になるまではほとんどの一般庶民が知りませんでした。
そもそも、幕府(徳川の将軍様)の上に天皇がいるということすら、江戸時代の一般庶民は知らなかったのです。
それが、明治天皇がお上ということになって、神道が国の宗教とされたことにより、一般の人々にもかつての神道を再認識させることになりました。
ただ、それ自体はよかったのかもしれませんが、その後「廃仏毀釈運動」や「神国日本思想」につながっていってしまったことは、大変残念なことです。
しかし、いまでも庶民の年中行事としても伝わっているというのは、そもそもこの儀式の起源が普通の人々の信仰から始まっているという所以なのでしょう。
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