【神道の歴史】その弐~権力は移り変われども、変わらずあった神道~
大和王権が、朝廷内部の政争により支配力を失っていく中で、軍事貴族と呼ばれる公家たちに権力が集中するようになっていきます。
彼らは、元は没落した下級貴族であり地下人とも呼ばれた官位を持たぬ一族でした。
しかし、地方に横行した群盗を次々に制圧すると朝廷に認められ、官位を賜りました。
それにより、近畿地方を中心とする東国に「河内源氏」、西国に「伊勢平氏」という軍事貴族が頭角を現して来たのでした。
そして保元の乱・平治の乱などの皇位継承争いを軍事力により解決させ、最初に国家の政権を担うようになったのは「伊勢平氏」でした。
平氏政権の神道
この当時(11世紀頃)、瀬戸内海一帯を縄張りとしていた海賊が跋扈していました。
この海賊たちは、その近辺に領土を持つ在家領主たちで、付近の瀬戸内海沿岸を通行する商船や朝廷の船などを襲い、金品などを奪ったりして思うがままにのさばり、朝廷を悩ましていたのでした。
この時伊勢平氏の棟梁(武家軍団の長)だった忠盛は、この海賊追討に成功し、降伏した海賊(在地領主)を自らの家人に組織化しました。
これにより伊勢平氏は、さらに中央で力を持つようになっていくのでした。
その後、忠盛の子・清盛は安芸守(今の広島県西部の知事)に任じられ、瀬戸内海の制海権を手にしたことにより、支配下の武士たちも増加し勢力が拡大していきました。
そして清盛は、自分の娘を天皇と結婚させて自身は従一位・太政大臣となり、権力の中枢に食い込んでいきます。
その後中央政権下で、東アジア大陸の宋の国と日宋貿易を行い、宋銭の流通により通貨経済の基礎をつくることにも貢献しました。
こうした事により平清盛は、日本初の武家政権を打ち立てることになったのです。
そして、中央の官僚はもとより地方の国司の半数近くを、平家一族が占めるといった独裁状態になっていきます。
こうしたことを背景に、平家の大規模私有地(荘園)は全国に500余りとなり、平家は栄華を極めるようになっていったのでした。
その後清盛は、当時京都や奈良で巨大勢力化しつつあった南都北嶺(南都=興福寺を中心とする南都仏教教団・北嶺=比叡山延暦寺)といった寺社勢力を、朝廷の敵となりうるとして危険視し押さえ込んでいきます。
そうして、清盛が安芸(広島県西部)の国司(安芸守)という縁で、厳島神社の神主・佐伯景弘と懇意(親しく交際すること)になり、その大規模な社殿を造営したのでした。
厳島神社は、平清盛が大規模な社殿を整備し平家の氏神としたため、現在でも全国に約500社ある厳島神社の総本社となっており、ユネスコの世界文化遺産としても登録されています。
しかしこれがもとで、他の天皇一族の貴族たちや大規模寺社(藤原勢力)そして平氏以外の軍事貴族の武士たちは、次第に不満を募らせていきました。
そうした中、一族の棟梁である清盛が病没すると、反対勢力によって平家は次第に滅亡への道をたどっていき、壇ノ浦の戦いを最後に平氏政権は終焉を迎えます。
鎌倉幕府の神道
平家の支配よる不満が各地に募っていった頃、河内源氏の棟梁である源頼朝は、平家討伐のために挙兵し、平氏政権を滅ぼすに至ります。
その後、他の源氏一門(常陸源氏・上野源氏・甲斐源氏・多田源氏)や弟の源義経・源範頼らを滅亡や衰退させ版図を広げていきました。
そして、東北の奥州藤原氏を討ち滅ぼすに至り、政権を固めていったのでした。
建久元年(西暦1190年)11月7日、以前から対立していた後白河法皇が頼朝と対面し、頼朝の「法皇の事を自分の身に代えても大切に思っています」との言葉により、頼朝が権大納言に任じられました。
そして、建久2年(1191年)3月22日に発布された建久新制により、頼朝の「諸国守護権」が公式に認められます。
ここから、武家政権が朝廷を守護するという新たな体制である鎌倉時代が始まりました。
こうして頼朝は、建久3年(1192年)征夷大将軍の位を得て、鎌倉幕府という軍事政権を打ち立てたのでした。
源氏政権が平氏政権と異なるのは、平氏政権が天皇と一体化した政権であったのに対して、源氏政権は天皇とは距離を置く武家政権として確立したことでした。
そしてこの後、武家政権が終わり明治時代になるまで、清和源氏(河内源氏の祖先)が武家の棟梁であるとされていったのです。
八幡神という神道の神様
武家政権を確立した源頼朝は、鎌倉に拠点を築きそこに鶴岡八幡宮を建立しました。
そしてその神社を中心に幕府の軍事施設を整備していったのです。
鶴岡八幡宮とは
八幡神社の系列の神社のことです。
元は鶴岡若宮といいました。
その始まりは、京都の石清水八幡宮護国寺を勧請(神仏の分身・分霊を他の地に移して祀ること)したことでした。
最初は鎌倉の由比郷鶴岡(今の鎌倉市材木座1-7)にあり、それを建立したのは河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義でした。
その後、頼朝が鎌倉幕府を打ち立てた後、移築したのが鶴岡八幡宮(鎌倉市雪ノ下2丁目1−31)です。
建久2年(1191年)3月4日鎌倉大火で鶴岡八幡宮は焼失しますが、この際若宮と共に本宮を造営し再興されました。
現在、若宮は下宮・本宮は上宮と呼ばれています。
またこの当時、神社と寺院の区別はなかったため、本来の名称は「鶴岡八幡宮寺」という名称の神宮寺でした。
しかし、明治の廃仏毀釈運動により、江戸時代まであった仏教関係の建物は、すべて破壊または移転され、以後「鶴岡八幡宮」という名称になり、今では以前の仏教関係の建物の痕跡はありません。
現在の祭神は、第15代応神天皇・比売神・神功皇后の三柱です。
八幡神社とは
八幡宮・若宮神社などとともに八幡神を祀る神社のひとつです。
宇佐氏が社家とする宇佐八幡宮(大分県宇佐市南宇佐2859)が、現在全国に約44,000社ある八幡系神社の総本社となっています。
八幡神とは
八幡神は、もとは大分県北部にいた宇佐氏の氏神様でした。
「八幡」は、最初「やはた」と読み数多くを意味する「八」と「神」が降りる「依代」としての「旗(はた)」を意味すると言われています。
八幡は、後に仏教と習合して、「はちまん」と呼ばれるようになります。
そして、神仏習合の過程で第十五代応神天皇の神霊とされ、そこから皇祖神(天皇家の祖とされる神)となりました。
古事記のもととなった一つである『豊前国風土記』には、「昔、新羅国(古代朝鮮の王朝)の神、自ら度り到来して、此の河原(現在の福岡県田川郡香春町とされる)に住むり」とあります。
また、1313年(正和2)に宇佐神宮の社僧神吽が選修(選び研修)した『宇佐八幡宮託宣集』には、「古へ吾れは震旦国(古代インドが中国を指した言葉・支那の語源)の霊神なりしが、今は日域(日本国の異称)鎮守の大神なり」ともあります。
こうしたことから、もとは大陸で祀られていた神様ではなかったかとする説もあります。
東大寺建立中の天平勝宝元年(749年)には、八幡神が大仏建造に協力しようと託宣(お告げ)したとして、宇佐八幡の禰宜の尼が上京しました。
この功により東大寺仏像の完成を見たとして、天応元年(781年)朝廷は、宇佐八幡に八幡大菩薩(鎮護国家・仏教守護の神)の神号を贈りました。
その後八幡大菩薩は、伊勢天照太神と並ぶ日本国の帝位を計らっていただける神となりました。
こうしたことにより清和源氏・桓武平氏をはじめとする武士の尊崇をあつめるようになり、全国の寺に鎮守神として八幡神が勧請(分霊を他の神社に移すこと)され広まっていきました。
そしてその後、武家時代には源氏の守護神となっていき、戦国時代には軍神として全国の武士たちから祀られるようになっていきます。
現在では全国に4万社あまりある八幡様の総本宮となっています。
北条政権の神道
源氏家は、頼朝が源氏の一門を討ち滅ぼしてしまったことや、朝廷や御家人などとの対立の中で跡継ぎを育てることができなかったために、三代で滅びてしまいます。
その後は、妻の北条政子の実家である北条氏が政権を担うこととなります。
しかし、北条氏は伊豆の国の豪族であったため征夷大将軍にはなれず、天皇の一族が就いた征夷大将軍(摂家将軍)の補佐である執権という立場でした。
ただ、北条氏にとっても神道は特別なものであり、朝廷の神祇制度とは別に武家社会においても神社を保護しようとしていました。
三代執権・北条泰時は御成敗式目を定め、その第一条には「神社を修理し、その祭祀を必ず行うこと」と明記するほどでした。
しかしその後、元寇などのいくさにより北条政権の勢力が拡大していくことにより、次第に摂家将軍(天皇家)との対立が深刻化していきます。
また、そうしたいくさで戦ったにもかかわらず恩賞もろくになかった事により、御家人たちも離反していくことにもなっていきました。
こうして、後醍醐天皇の時代に元弘の乱・東勝寺合戦により北条氏は滅びました。
室町幕府の神道
その後第96代後醍醐天皇は、鎌倉政権が滅亡した後、後に建武の新政(建武の中興)と呼ばれる親政(天皇が自ら行う政治)をはじめます。
この新政は、院政・摂政・関白や征夷大将軍などを置かず、政治権力の一元化を目指していました。
それは、表面的にはかつての大和王権の復古のようにも見えましたが、実際は当時の東アジア大陸の宋の国にあった朱子学に影響された、君主独裁制を目指していたのでした。
しかし、天皇一族である公家の主流派からの賛同が得られず、また武士団たちの反発もあり、3年後の建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊します。
この足利尊氏が開いたのが足利政権でした。
この政権においても、御成敗式目を踏襲した建武式目が出され、神社や寺院は保護されていきました。
ただ、戦乱を制した足利氏も、もともとが弱い経済基盤の上に成り立っていました。
そのため、以前から幕府に名を連ねていた、有力な武士軍団たちの勢力争いは、静まることがありませんでした。
こうしたことにより、武士達の間に厭世観が生まれ、彼らはその本分から離れて、能・狂言・茶の湯・生花などの文化的なことに傾倒していくようになりました。
これにより、幕府を支える地盤が崩壊していきます。
こうして、応仁の乱を引き金に時代は、一気に戦国時代に突入していってしまいました。
そして戦が続くことにより、荒廃した神社仏閣は整備もままならなくなっていきます。
人々の心には厭世感が蔓延し、鎌倉時代より始まった浄土宗・浄土真宗などの、「どんな人も念仏を唱えれば死後には極楽浄土に往生する」という思想が全国的に広がっていきます。
一方で、仏教勢力は教えを広めるために積極的に神道と結びつき、本地垂迹説や独自の神道論ができたりもしました。
こうして神道分派が乱立する中で、神道は仏教に吸収されてしまったかに見えましたが、実は鎌倉旧仏教派に属する高僧達は、神道へ敬意を払うと同時に、神道の神祇への接近を目指している一派もいました。
例えば、天台宗の座主(宗派の最高位)慈円などは、仏教界の中においても日本が神の国であるとし、天神地祇を認めて神宮の参宮を行い、神道古典の研究をして神道の持つ奥義を理解しようと努めました。
そして、「誠には神ぞ仏の道標、迹垂とは何故か言う」と歌を詠み、当時主流となっていた本地垂迹説に疑問を投げかけ、垂迹(仮の姿)といわれた神こそが本地(本来の姿)ではないかという考えを表したりしていました。
こういった動きは、神道に従事する人々の自覚・自立を逆に促進させることになり、意識的に仏教の影響下から離れ陰陽道や道教・儒教により神道を復活させようとする神職が、室町末期には現れてきたのでした。
織田・豊臣政権の神道
戦乱の世の中で、神道を始めとする神社仏閣は逆に安定していきます。
各地方の大名が覇権を争うこの時代では、武士は足軽に至るまで立身出世を夢見ることができる下剋上の時代でした。
そのため、武士たちの精神的拠り所として、神や仏の加護は相当の影響力がありました。
先の時代、北条氏が定めた御成敗式目には、「神社の祭祀や儀式を執り行うことにより神威が増し、その信仰により神の徳が受けられ、運が開ける」と書かれていました。
そういった思想は、戦国の世にも引き継がれ『武家が神祇的政策を行うのは、当然である。』という意識が武士達の間に高まっていったのです。
そして、この思想により戦国大名は、それぞれの領内において神社仏閣を整備し、門前に市を開き経済的地盤を確保していったのでした。
一方神官や僧侶などの中には、そうして保護された事により神社仏閣内に武力組織をつくり、強大な勢力を持つことによっていくさに参戦する者も現れます。
例えば、越前・加賀・能登・近畿・三河などでは、一向宗の僧侶や門徒の農民が新興の小領主や土豪層と連合して、大名の領国制支配と戦った一向一揆もおこったりと、いくさの時代は果てしない様相を示していきました。
こうして、全国の戦国大名達によって保護された神道は、生き残っていきました。
ちなみに、信長が立てたと言われる安土城の見取り図や跡地の研究から、天守閣のすぐ横に天皇をお迎えするための屋敷があったことがわかっており、かの第六天魔王と言われた人物においても、天皇家は別格だったのだということを知ることができます。
こののち戦国の世は、徳川家康が幕府を興したことにより、応仁の乱以後長きにわたる混沌の時代に、ようやく幕を下ろします。
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