【神道の歴史】その参~神仏の習合から復古神道による新たな国へ~
織田信長・豊臣秀吉と続いた全国統一の機運は、徳川家康によって結実しました。
家康によって戦乱の時代は終わり、幕藩体制によって日本に平安がもたらされたのです。
江戸幕府はキリスト教は禁止しましたが、そのほかの宗教や宗派神道に関してはあまり厳しい統制や排除はしませんでした。
このころ神道は、吉田家の唱える吉田神道と白川伯王家の唱える伯家神道(白川流神道)がほぼ席巻(圧倒的勢力を維持すること)していました。
しかし、幕府として特別重用(特別に保護すること)したり統制(宗教活動に制限をかけること)したりということもなく、一般の信仰に任せていました。
というのも、この頃神道と仏教は分離しておらず、いわゆる神仏が習合(混合)して、お寺の中に神社があったり、またその逆の場合も普通にあったのです。
そのため江戸時代においては、寺も神社も寺社奉行所に管理されました。
また神社に比較して、寺は本山末寺の関係が明確で支配体制が確立していましたので、その制度を神社の管理にも利用したということでもありました。
そしてそうした管理によって、戦乱の世以降絶えていた様々な儀式や祭事が復興され、神祇制度や社家の支配体制も次第に整えられていったのでした。
東照宮という神社
由緒ある祭儀の復活と共に、徳川家康を祭った東照宮のように新たに崇拝の対象となった神社も増えていきました。
徳川家康は没後、後水尾天皇により東照大権現の称号を奉り、正一位の官位を称されます。
そして日光に社殿を建て、その社殿は神として奉斎したことにより東照宮様と言われるようになりました。
古来、祭神が皇族でも天神地祇でもなく国家のために特に功労のあった人臣をまつる神社や、国家に災いをもたらすとされる怨念を持つであろうとする人臣を祀る神社が建立されてきました。
そうしたことにより、家康を祭る東照宮も各地に建立され、政治的に全国に分布を広げていったのでした。
東照宮は、各地の城下町などに勧請(本宮から分霊された御霊を祀ること)され、現在東照宮と呼ばれる神社は全国に百社以上あります。
儒家神道の台頭
また神道を中心とした思想も様子が変わってきます。
神仏習合的な仏家神道に代わって、儒教と神道との一致を解く「儒家神道」が台頭してきました。
この江戸期の儒家による儒家神道は、排仏思想を基とし、儒教を主体とする神道思想でした。
儒教は、徳川幕府封建体制の主流思想でしたが、この思想はその中でもとりわけ朱子学の立場から神道を解釈した思想でした。
この儒家神道の思想や教学を唱えたのは藤原惺窩・林羅山・山崎闇斎等の朱子学者でした。
ただ、儒教の立場から神道を説く者は、それ以前からからありました。
北畠親房の「神皇正統記」や度会家行の「類聚神祇本源」・清原宣賢の「神道説」などです。
藤原惺窩は、『本来儒教と神道は同じである』としました。
その後、林羅山が惺窩の論を継承し発展させていきます。
羅山の「理当心地神道」という神儒一致思想は、排仏思想が基本にありました。
それ以前の神儒一致思想には、排仏という考え方はありませんでした。
しかし羅山は、「本朝神社考」という著書で神仏習合思想や吉田神道を批判します。
そして、『天皇家に伝わる三種の神器は、中庸(儒教の基本思想のひとつ)の智・仁・勇の三徳を表すものである』としました。
また同じ羅山の著書「神道伝授」では、『歴代の天皇はその心に清明なる神が宿り、その神の徳と力によって国家が統治されていることこそが神道であり王道である。』としています。
この林羅山の神儒一致思想は、その後多くの神道家や儒学者に影響を与えていくのでした。
外宮(伊勢神宮の正宮のひとつ)の神職であった度会延佳が創始した「後期伊勢神道」も神儒一致思想を継いでいます。
ただこれは、政治理論であった羅山の神道説とは異なり、『神道は日常生活の中にこそあるものだ』としました。
山崎闇斎が提唱した垂加神道は中国古来の政治思想である易姓革命を否定し、天皇と臣下(君主に仕える者)との関係は不変であるとし、臣下のあるべき姿を説きました。
水戸学(常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成された学問)は、栗山潜鋒を通じてこの垂加神道の影響を受けていました。
こうしたものが、江戸時代前期に現れた神儒一致思想でした。
しかし、やがてそれに反発する「復古神道」という新たな思想が生まれていきます。
神道の揺り返し
その後、国学者・荷田春満が、「古道」を提唱しました。
この「古道」は、『幕府が進める官学が、なぜ外国の宗教である儒教なのだろう。』という疑問から、それまでの儒家神道に反発したものでした。
そして、「日本人にはやはり日本古来の信仰が大事である」という考え方を説いたのです。
これにより、「それまで神道の拠より所とされていた日本書紀だけではなく古事記も研究すべき」とし、古神道を再認識しようという動きが興っていきます。
これにはこの頃、永く行方不明になっていた古事記の写本(真福寺写本)が見つかったというのも、大きな要因になっていました。
賀茂真淵が国意考という著を起こし、古道の存在を訴えました。
彼はこの著書で、儒教・仏教などの外来思想を批判し、「古代の風俗や歌道の価値を再認して、日本固有の精神へと復帰すべき」と説いたのでした。
やがて彼の思想を引き継いだ本居宣長・平田篤胤らが、『神道は本来、日本書紀・古事記などが基礎である』とする「復古神道」を提唱するに至ります。
本居宣長は、「直毘霊」という著を起こし、古事記の本質を簡潔にかつ体系的に論述し、古道論を広めました。
平田篤胤は、「古道大意」という著を起こし、本居宣長の「直毘霊」をもとに国学の思想を紹介しました。
そして、古代史を明らかにし皇道の正当性を天下に示すべく、平田派国学を提唱していきました。
この平田派国学の流れから後に、本田親徳・川面凡児や、その他多くの古神道系の宗教家が誕生していきます。
つまりこの復古神道は、儒教・仏教などが渡来し日本の宗教が習合して影響を受ける以前の、日本民族固有の精神に立ち返ろうとする思想だったのでした。
そしてこの思想では、神々の意志をそのまま体現する惟神の道が重視されました。
天皇制国家への息吹
復古神道は、都市部の町人から始まり全国の農村の庄屋や地主層を通して農民にも支持され、そうした広がりにより幕末の志士たちにも大きな影響を与えていきます。
それにより、幕末になると勤王思想が更に広がりを見せ、尊王攘夷論が生まれていったのでした。
そうしてそれは、明治維新へとつながっていく「勤王思想」という社会思想になっていきます。
勤王思想
勤王思想とは、「徳川幕府による国家支配の体系を解体し、新しい国家権力の頂点に本来の王である天皇を据えるべし」とした国家主義的な政治思想のことです。
こうした思想が広がる背景には、当時アメリカの大型船が浦賀沖に現れ、日本に開国を迫ったのですが、徳川幕府は為すすべもなく不平等条約を結ばされてしまったこともあったのでした。
尊王攘夷論
こうした勤王論から、やがて尊皇攘夷論が生まれてきます。
「尊王論」とは、『天皇及び皇室は、日本古来の血統を受け継ぐものであり、王と王家として崇拝すべき』とする民族主義的な思想のことです。
そして「攘夷論」とは、『夷敵(外国人をさげすんで言う言葉)を武力によって排斥(拒み退けること)すべき』とする思想のことです。
つまり尊王攘夷論とは、「天皇を日本の王とし異人を排除せよ」という思想のことでした。
幕府の弾圧
幕府は安政1年(西暦1854年) ,アメリカとの日米和親条約に調印しました。
これにより、貧困化し幕政への不満をつのらせていた諸藩の下級武士たちは、 夷敵とする西洋諸国の圧力に屈したとして反発をします。
しかし幕府は将軍継嗣問題でもめていたため、そういった全国の動静にも気づきませんでした。
そうしたおり井伊直弼が大老に就任し、天皇からの勅許(許可)を待たずに反対派を押切って日米通商条約に調印し、次いで安政の大獄を断行してしまいます。
これにより、外国貿易が頻繁になり物価が高騰し、下級武士たちの生活は圧迫されていきました。
こうして、幕府に対してますます不信をつのらせた武士たちは、朝廷の尊皇攘夷派公家と結んで活発な攘夷運動を展開していくのでした。
戊午の大獄とも呼ばれる思想弾圧のことです。
当初弾圧されたのは、尊皇攘夷派の武士や一橋派の大名・公卿・勤王の志士とよばれた活動家らでした。
その総数は、100人以上とされます。
始まりは、徳川斉昭・徳川慶篤・徳川慶勝・松平春嶽らと連合し、「条約調印自体は止むを得ないが勅許(天皇の許可)のない調印は敬意を欠いたものだ」として、老中井伊直弼を詰問(問い詰めること)しようと江戸城に登城せずにいたのを、直弼はご政道を乱した罪として将軍の名を借り彼らを隠居や謹慎させたことでした。
その後この動きは全国に広がりましたが、直弼はこれを次々と弾圧し、彼らを投獄していきました。
安政7年(西暦1860年)3月3日、桜田門外の変において直弼が殺害されると、この弾圧はようやく収束を見たのでした。
徳川幕府の終焉
その後老中安藤信正らによって「公武合体派」が現れます。
そして、山内豊信(容堂)・松平慶永などが「公議政体論」を打ち出し、1867年11月9日(慶応3年10月14日)江戸幕府15代将軍徳川慶喜が朝廷へ政権返上をし大政奉還を実現しました。
朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)の合体による幕藩体制を再編強化しようとする思想のことです。
尊皇攘夷論から生まれた倒幕派に、幕府を存続させようとする佐幕派が提案しようとした思想。
本来「公議政体」とは、『諸侯(藩主など)から民衆にまで広く方策を求め、国家の意思形成及び統一を図ろうとする政治思想』でした。
しかし、佐幕派にとっては「公議」とは江戸幕府・「輿論」とは藩及び諸侯(藩主)を指し、諸藩主の意見を幕政に反映させるという程度の意味でしかなかったのでした。
これにより倒幕派は反発します。
そして、長州・薩摩の朝廷方であった大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允・岩倉具視らは、1867年12月9日王政復古の大号令を発するに至りました。
その後、将軍徳川慶喜の辞官・納地が命じられ、幕府と朝廷の衝突により戊辰戦争が起こります。
しかし、翌年朝廷側は幕府側を鎮圧しました。
朝廷方の新政府は明治1年(西暦1868年)1月15日各国公使に王政復古を通告し中央政府機構を整備しました。
また、同じ年の3月には五ヵ条の誓文を発して、新国家建設の方針を内外に明らかにします。
こうしたことから新政府は、古代王制への復帰(神武創業)を理想として祭政一致を掲げ、神祇官を設置し神道思想を推し進めることになっていったのでした。
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