【神道という信仰】原点と謂れ、そしてその始まり

鳥居等の建物で知られる「神道しんとう」。

この「神道」は、日本人なら誰しも馴染なじみのある信仰です。

そして、この信仰は1700年以上に渡ってながく、この国で続いてきました。

しかしながく続いてきたぶん、時代時代によっていろいろな形に変化して来ています。

そうして、現代人にとっては普段の生活の中に溶け込み慣習化してしまい、特別意識されにくくなってしまっています。

では、その神道というものの原点いわは何だったのでしょう。

そして、その始まり はいつ頃だったのでしょうか。

神道とは

そもそも神道とは一体何なのでしょう。

 

それは、もともと太古の昔この列島の各地に住み着いた人々による、祖霊(ご先祖の霊)や自然に対する様々な信仰でした。

かつて、南から北から海を超えて渡ってきて、この列島に住み着いた人々は、そのそれぞれの集団が別々の信仰を持っていました。

そしてその人々は、この列島の各地に集落を作り、それぞれが独自の信仰儀式を行っていました。

ところが、およそ3世紀(西暦200年代)頃(時代区分でいえば弥生時代末期から古墳時代初期あたり)に、今でいう近畿一帯地方で、やまと族という部族を中心とした周辺の部族が連合し、やまと王権(大和朝廷)という集権国家を立ち上げました。

このやまと王権(大和朝廷)は、その周辺の諸部族を次々に支配し、その勢力を広めていきます。

そして、その集権国家の権威を示し従わせるため、やまと族のおさやまと王権(大和朝廷)の大王おおきみ(天皇)としました。

また、新たな信仰の儀式を創り、その祭祀さいしり行う最高責任者を大王おおきみ(天皇)としたのです。

そして、これをしきたり(当然のごとくのように古くからあったとされる常識)のようにしたのです。

これが、「神道」です。

ただ、実際にり行われた祭祀さいしの中身は、支配された集落で、それぞれに行われていた別の信仰の伝承(言い伝え)をつなぎ合わせ、やまと王権(大和朝廷)にとって都合のいいように辻褄を合わせ、一つの儀式としたものでした。

つまりやまと王権(大和朝廷)は、大王おおきみ(天皇)をたてまつらせる代わりに、各集落の信仰を尊重するといったことにより、中央集権国家を造り上げることができたのでした。

また、それを文書として残したものが、「古事記」であり「日本書紀」なのです。

神道の原点

それでは、大和王権以前に何万年と暮らしてきた、この列島の各地にあった部落の「信仰」とは、一体どんなものだったのでしょう?

それはまだ、はっきりとはわかっていません。

というのも、それ以前にあった集落の信仰の痕跡こんせきは、当然大和王権にとっては都合が悪いものです。

ですから、ほぼ消されてしまっているのです。

ただ近年、研究者たちによってその跡が見つかり始めています。

仏教やキリスト教などでも、世界各国でその起源についての研究が進んでいるようですが、この大和王権以前の信仰についても、いろいろな研究がされているのです。

国内各地にあった古代の集落の跡地が、近年になって発掘され研究されています。

そこから発掘された古代文字や土器・土偶などを研究している学者たちは、その中に大和王権が編纂へんさんした古事記や日本書紀に書かれた神話との共通点を見つけ、その起源である古代の信仰を見い出そうとしています。
釣手つりて土器 と呼ばれる土器など)

また、日本国支配の集大成として編纂へんさんされた古事記は、各地の豪族たちの信仰の記録である風土記ふどきを取り入れ書かれていますので、その内容から推察しようとする学者もいます。

現代学会からは偽書扱いされている古史古伝と呼ばれるものを、その証左とする人もいます。

いずれにしても、それらはいまだ仮説の域を出てはいません。

今後、いろいろな分野で調査・研究が進めば、より多くのことがわかってくることでしょう。

渡来した人々の信仰

太古の昔、海の向こうから多くの人々が渡ってきて、この列島に暮らし始めました。

その集落の数は三百あまりとも言われ、その規模は大きい集落では何百人小さな集落では何十人とさまざまでした。

そしてそれは大きく分けて、西に「衆夷しゅうい」と呼ばれる集落(熊襲くまそ族など)、東に「毛人もうじん」と呼ばれる集落(蝦夷えみし族など)に分類できるのではないかとも言われています。
(ちなみに、2019年4月19日にはアイヌ民族支援法が成立しましたが、このアイヌと言われる民族と先程の蝦夷えみし族とが、はたして別の民族なのかそれとも同一民族なのかは、まだはっきりとはわかってはいないのです。)

また、何かと話題になる卑弥呼ひみこを代表とする邪馬台国やまたいこくもあったとされていますが、しかしこの邪馬台国やまたいこくは、大和王権の前身もしくは同一の国ではないかともいわれています。

さて、彼らがこの列島で暮らしていくためには、この土地特有の大自然とともに生きていかなくてはなりませんでした。

春夏秋冬という四季があるこの土地では、台風・雪害・地震・津波・雷・豪雨などさまざまな自然災害が起こりました。

また時には豊かな自然の恵みにより、豊富な作物という自然の恩恵を受けることもありました。

彼らは、そうした自然をありのままに受け入れ、災害にはおびえつつまた食物の恩恵には感謝をし、祈りを捧げながら日々をつむぐように暮らしていました。

そして、自然災害や豊作・暦の移り変わりなどの折々に、彼らが海の向こうの故郷でしていた儀式や風習を元にした祭祀さいしや儀式をすることで、大自然と向き合って生きてきたのです。

その後そうした儀式や祭祀さいしは、この列島独自の自然信仰・祖霊崇拝それいすうはい精霊せいれい信仰の文化となっていきました。

そしてその信仰は、やがて神々を生み出しそれが神祇祭祀じんぎさいし(天の神・地の神をまつる事)の儀式の対象となっていきました。

こうした信仰は、今では宗教的概念の観点から見て自然宗教(みんなが共感して生まれた宗教)とされています。対して仏教やキリスト教は一人の人が提唱した創唱宗教と呼ばれています。

しかし私達の祖先である彼らの時代には、そういった宗教的概念などはなく、ただ日々の暮らしが平穏であれという祈りそのものだったのです。

それが 神道の原点 です。

そして、こうした彼らの想いは引き継がれ、今でも日本各地には当時から続く独自のお祭りや儀礼などの信仰が現存しているのです。

また、一度はすたれてしまった祭祀さいし・儀式も、最近になって地元の人々の手によって復活した例もあります。

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神道のいわれ

紀元2世紀頃まで、この列島はひとつの国ではなく、各地に集落が点在するだけの地域でした。

対して海の向こうの東アジア大陸には歴代中華王朝という強大国家がありました。

そして東アジア地域においては、この歴代中華王朝がその武力により自らを「宗主国」とし、私達の祖先が住むこの列島や朝鮮半島などを「属国」として支配していたのです。

しかし、紀元3世紀頃「やまと族」という部族が、当時の王朝国家であったずいの属国であることをやめ、独立した王権国家を創ろうと乗り出しました。

ただそのためには、『自分たちの統治する政治的国家権力が正当なものである』とする大義名分が必要だと彼らは考えました。

そこで、この列島のそれぞれの集落の人々がいにしえから伝えていた信仰の言い伝えを、大和王権の都合のいいように取りまとめて、神道という国家宗教を創りました。

そして、『この列島は我々やまと族(天孫族)の祖先である神が創造し、そこからこの列島の各部族が別れていき、天皇(大王おおきみ)はその直系の子孫である。』とした書物(古事記・日本書紀) を、公式文書として編纂へんさんし、国の内外に宣言したのです。

これが、日本という国の始まりでした。

そうして、「日本国の支配者である「天皇」が祭祀の最高責任者であり、その祖先とする創造神を祭祀さいし(おまつり)する儀式を行うものとする」ことを決めたのです。

この儀式・しきたりが、神道しんとう と呼ばれるものの始まりです。

そして、こうした事によって今でも神社には、神道以前と以後の神様がまつられることになったのです。

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神道という名称

では、神道という名称の起源は何だったのでしょう。

そもそも神道という言葉は、大陸から来た言葉でした。

大和王権が、日本国を興した頃国造りの手本としたのは、ずいやその後おこったとうなどの大国から見聞きした文化でした。

その中に「神道」という言葉もあったのです。

東アジア大陸では、その王朝時代により神道という言葉の意味は変わっていきました。

古くは、「しゅう」という国で生まれたえきの思想において、天地の道自然のことわりという意味で使われていました。

この思想では、神をまつるときには、まず手を洗いそののち供物くもつを捧げるといった精神を説いていました。

これが、のちに けがれはらえみそぎ という神道の基本思想となりました。

その後「かん」の国では、死者をほうむった陸墓に通じる道呪術的な仙道・真道という意味で使われたりもしていました。

そして、「しん」・「」の国の時代になると、道教・仏教は真道・神道の教えによるものとされていました。

大和王権は、こういった東アジア大陸の思想を取り入れると共に、自分たち及び支配下の信仰文化をひとつの祭祀さいしにまとめ、「神道」という宗教にしたのです。

これが 神道のいわ です。

神道の始まり

繰り返しになりますが、神道の本質は本来人々の信仰であった祈りの文化でした。

それを紀元3世紀頃、独立した国を建てるために国教という形に創り変えました。

そしてこの国教では、天皇という権力者を最高位の祭祀さいし者として権威づけ、天皇家の祖先とされる神をあがめさせることを教義としました。

こうしたことから、この 神道という宗教が始まった のです。

信仰という心の原点

その後大和王権の権威が失墜すると、江戸時代までは神道と仏教はあまり区別されずに、八百万の神々として混然とした信仰が続きます。

ところが明治時代に入ると、神道は再び国家神道として利用されることになっていきました。

これに関しては、今でも国の内外で賛否両論の対象となっています。
それは、最初神道そのものを国が管理し国教としようとしていたはずが、徐々に神道という宗教は弾き飛ばされ、天皇が神であるという思想だけが広がってしまったためです。

ただそれは別の意味では、現在国家神道と呼ばれるこの頃の思想が、当時の日本という国を発展させるための原動力となっていったのも確かなのでした。

またそれとは別に、神道そのものは幾時代の中で時の権力者がどう変わろうと、連綿と現代まで続いてきました。

なぜならそれは、神道というものが本来人々の祈りの文化であった、信仰をもとにしていたからに他なりません。

この国の人々は、国家権力とは別に祖霊崇拝・精霊崇拝・自然崇拝といった心のり所によって暮らし、それを継承していった事で独自の文化を現代までつなげてきたのです。

一方西欧や東アジアの大国では、新しい国家権力者が現れるとそれ以前の文化をすべて打ち壊し否定することを繰り返してきた歴史がありました。

そのため神道は、諸外国の人々に奇跡の宗教として驚嘆されています。

日本という国の神道という宗教は、世界的に見ても全く異質の宗教文化として継承されてきた経緯があります。

そしてその信仰文化は取りも直さず、私達の祖先たちが永く伝えてきた日本人としての心の原点と言えるのです。

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Posted by 風社