【神道の歴史】その壱~独立主権国家のために創られた宗教・神道~
神道は、倭族が大和王権を打ち立て興した宗教です。
この、倭族といわれる民族がどこから渡来したのかということは、未だはっきりとはしていません。
一説では、東アジア大陸の今の中国長江の最下流部・揚子江あたりにあった部落の民俗が、倭族ではないかと言われています。
ともあれ、彼らが日本という国名と新たな元号をつくり、大和王権という独立した集権国家を打ち立て、その基盤として神道という国家宗教を創り上げたのは間違いありません。
そうして、ここから「神道」という宗教の歴史が始まったのです。
では、大和王権が「神道」を創ったのは、なぜだったのでしょう。
それには、大和王権ができた経緯からお話しする必要があります。
倭国から日本国へ
西暦2世紀頃まで、この列島は東アジア地域では後進の地域でした。
つまり、このころこの列島は、各地に小国(集落)があるだけの辺鄙な地域だったのです。
当時の先進大国は、東アジア大陸にありました。
そして、そこでいろいろな歴代中華王朝が興っていました。
彼らは、自らの国を「宗主国」としその周辺の諸民族を「属国」として、時には支配しまた蔑んでいました。
これは、「自分たちは華夏であり、その外側の四方の諸民族は見下されるべき存在で四夷である」という思想でした。
「華」は華やか、「夏」は盛んであるという意味で、我々の国は文化の開けた都であるという事を他国にアピールするための言葉です。
逆に言えば、他の国はすべて自国より劣った国という意味で、この思想において対等な外交関係はありないと考えていました。
そのため、我が国(中華王朝)は「宗主国」であり、周りの国はすべて「属国」でなければならず、「属国」は必ず「宗主国」に貢物をするべきであるし、「宗主国」は属国を支配すべきとしました。
そしてこの思想は、今の中華人民共和国にも引き継がれています。
そのため、現代でも中国は他の国とたびたびもめ事を起こしています。
・東夷=東北地方(満州)・朝鮮半島・日本列島など中華王朝の東方にある異民族
・北狄=匈奴・鮮卑・韃靼など北方の異民族。
・西戎=トルコ族・チベット族など
・南蛮=インドシナをはじめとする南海の諸民族
の総称。
こうしたことから、東側にあたる列島(日本列島)にあった小国(各集落)はひとまとめにして、倭国または東夷と呼ばれていました。
そして、そこに住む人々を倭人と呼んでいたのでした。
倭とは、小さくて卑しいという意味の蔑称(軽蔑して見下す言葉)です。
その後(4世紀ごろ)、この列島ではいくつかの小国が連合し、「倭王権」を名乗る国が現れました。
ただ、当初この「倭王権」は諸豪族の連合政権でしかなく、独立した国家体制として宗主国に対抗するほどの力はありませんでした。
そのため王権の代表者である首長は、中華王朝や朝鮮半島諸国などには倭国王(倭王)と名乗り、国内向けには治天下大王(大王)と名乗っていました。
ただ逆にこれは、ある意味倭王権には「倭国は中華王朝とは違う国であり、自らはそれを治める王である」という意識もあったからのことでした。
そうしたことから国内では、「我々は倭人であり倭人ではない」とし、倭という文字にやまとという読みを付けていました。
しかしその後、徐々に周辺の集落を支配し力をつけるようになると、「倭」という漢字を捨て代わりに「和」という文字を当てやまとと読むこととし、それに大を付けて「大和」という名称を名乗りました。
こうしたことから、国内では独立国となるべきという声が上がり、その際国名が必要だと考えました。
そして、この列島は「日出処(東アジア大陸から見て東方にあり、大陸より早く日が昇る場所)の国である」として、日本国と名付けたのです。
こうして、国の内外に倭国の倭王権は日本国の大和王権であると独立国を宣言します。
これが、「日本国」の始まりでした。
そして、倭族の首長(部族の長)を日本国の君主とし天皇と定めたのです。
この「小中華思想」の影響は、現在でも朝鮮半島に残っているようにも見えます。
天皇という名称の語源
さて、天皇という言葉はどこから来たのでしょう。
古代東アジア大陸のシナ・チベット語族の言語である漢語では、天皇と書いててんこうと読む東アジア大陸神話における神がおりました。
この天皇は、三神(天皇・地皇・人皇)のうちの一神を指します。
三神はまた、三皇・天地人三才とも呼ばれていました。
そしてまた古代東アジア大陸では、最高神・神格化された北極星のことを天皇大帝と呼んでいました。
大和王権ではそれに倣って、倭族の首長である大王が、「天に命じられてあまねく民をつかさどる者」であるとし、天皇と名乗ることにしたのです。
また天皇は、音読み(大陸読み)するとてんのうと読みますが、訓読み(ヤマト言葉)するとスメラノミコト(皇の尊)と表され、「この国を統すべる神」という意味をも、天皇という名称に持たせたのでした。
独立集権国家へのいきさつ
それでは、大和王権が大陸と決別し、独立した集権国家を打ち立てようとしたきっかけは何だったのでしょうか。
それは、当時の国の内外の情勢にありました。
白村江の戦い
6世紀から7世紀頃、朝鮮半島は中華王朝の属国として高句麗・新羅・百済という3国に分かれていました。
西暦663年10月、当時の王朝であった唐の国に従った新羅が高句麗を滅ぼし、百済に攻め入ります。
当時大和王権は、半島最南端にあった百済と親交があったため、援軍を求められました。
これにより、唐・新羅連合軍対倭国・百済のいくさとなったのです。
それが、「白村江の戦い」とよばれる戦です。
しかし大和王権はこのいくさに負け、撤退を余儀なくされました。
そして九州地方に防衛ラインを築き、都も沿岸の難波京から内陸の近江京へ移していったのでした。
こうして、大和王権は唐の国と対立することとなり、この列島を独立した国とすることへの要因となっていきます。
壬申の乱
また、国内でも王位(皇位)継承争いがありました。
38代天智天皇の弟である大海人皇子と、天皇の息子である大友皇子の争いです。
もとの原因は、「白村江の戦い」で大敗を喫した第38代天智天皇が追撃を恐れ都を移したことでした。
これにより、豪族や民衆に新たな物理的負担を強いることになり、彼らに不満が募っていったのです。
そして、その天智天皇(幼名・中大兄皇子)が、新たに確立しようとした体制は、息子の大友皇子を中心とした古参の豪族による古い体制であったため、反発の声が次第に強くなっていきました。
また、天智天皇が晩年になり、次期天皇として指名したのが大友皇子だったことにもよりました。
この大友皇子は天智天皇の長男ではありましたが、側室(本妻以外の、公的に認められた側妻や愛人)の子供であったことから、次期天皇としてはふさわしくないとし、各豪族から猛反発に会っていたのでした。
こうしたことにより、天智天皇の弟である大海人皇子(天武天皇)を支持する勢力が形成されていき、ついに琵琶湖周辺を中心とする大きな内乱へとつながっていきました。
その結果大友皇子はいくさに負け、自ら命を断つことによりこの争いは終わりました。
これが「壬申の乱」と呼ばれる内乱です。
「壬申の乱」とは、この年が干支(えと)という暦の中で壬申(みずのえさる)にあたることから、そう呼ばれています。
ただ、このいくさによって、庶民たちの暮らしは日々の暮らしに困るまでに荒廃する結果を招いてしまいました。
それにより大和王権の権威は失墜し、国家としての形が崩壊しかねない状態になってしまいます。
こうしたことから天武天皇(幼名・大海人皇子)を中心とする大和王権は、新たな国家建設を早急に進める必要に迫られてしまっていたのでした。
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