【神道の歴史】その肆~国家神道から国体思想へそして神国日本へ~
明治に入り神道は新たな変貌を遂げます。
「国家神道」が現れるのです。
「国家神道」とは、国家としての根幹を宗教思想による理念によって成り立たせようとしたものです。
そしてこれは、明治政府が欧米諸国と対等な外交をするために打ち出した政策だったのでした。
明治維新と呼ばれる政治改革を打ち出した明治政府は、西欧にあった立憲君主という仕組みを取り入れ、我が国の古代にあった大和王権という天皇集権国家と一体化させることで、新たな国家を目指していくこととしました。
しかし、明治政府に最初から「国家神道」という思想があったわけではありませんでした。
国教となった神道
徳川幕府が大政奉還し、日本の政は再び天皇に還る事となりました。
それとともに諸外国との外交が公式に始まったとき、見えてきたのが西欧諸国の帝国主義でした。
ちょうどこの頃、欧米諸国は東アジアに触手を伸ばして来ていました。
大英帝国(イギリス)は、清(明王朝を継いで東アジア大陸を支配した満洲族による中華王朝)とのアヘン戦争の後、東南アジア各国に侵略を始めようとしており、北からは帝政ロシアが樺太から北海道に侵攻しようとしていました。
そして、徳川幕府はアメリカと不平等な通商条約を結んだばかりでした。
国威啓発のために利用された神道
明治政府は、何百年と続いた鎖国が終わったことにより、欧米諸国と対等に付き合っていく必要が出てきました。
そして一番の危惧は、明治維新を遡ること20年ほど前に、イギリスによるアヘン戦争と呼ばれる戦争で、眠れる獅子とも言われ西欧列強からも畏れられた清王朝が敗戦し、南京条約という不平等条約を結ばされてしまったということがあり、日本もこの二の舞になるのではという危機感が生まれていったからでした。
ただ当時徳川幕府は、それまで異国の船にとっていた強硬な態度を軟化させ、天保13年(1842年)には、異国船に薪や水の便宜を図る「薪水給与令」を打ち出したりしていました。
この幕府の対外軟化が、やがて尊王攘夷派の怒りを買う大きな要因となり、日本の近代化へとつながることになったとも言えます。
こうして明治政府は、速やかな国家体制を変革することが急務となります。
そこでとりあえず欧米先進国の制度や文化を模倣(まねたり似せたりすること)し、新たな国家として確立することにしました。
しかし、彼らの宗教であるキリスト教を取り入れることはありえませんでした。
なぜなら、欧米諸国が以前からキリスト教の布教という名目で、近隣の東南アジアの国々を次々と植民地化していったことを知っていたからでした。
かつて戦国時代には、織田信長が許したキリスト教布教により、植民地化計画が進んでいきました。
しかし、豊臣秀吉がこれに気づいたために、植民地化されずに済んだということがあったのでした。
参考記事
そうしたことを学んでいた明治政府は、その西欧列強の手に乗ることはありませんでした。
そして、
ということで、かつての大和王権のように祭政一致(政治と宗教が一体化した)の国家を再び創ろうと考えたのでした。
そして、キリスト教を奉じる西欧列強に対抗するため、イエス・キリストの代わりに「天皇陛下」を神とし、その教典である聖書の代わりに「古事記・日本書紀」を聖典としたのです。
また、開国前後に起きた治安問題(浦上村事件など)を解決する必要もありました。
幕末に、現在の長崎県にあった浦上村で起きた大規模なキリシタン弾圧事件のことです。
明治になり村民たちは流刑になりましたが、欧米諸国の激しい非難を受け1873年(明治6年)にキリシタン禁止制は廃止されることになりました。
そしてまた、明治維新政府樹立の正当性を示すためには、倒幕(徳川幕府排除)のために担ぎ上げた天皇を絶対的存在とせざるを得なかったという一面もありました。
こうしたことから明治政府は、律令制の崩壊以降衰えていた神祇官という中央官庁を再び置き、中世以降長い間他の宗教と習合していた「神道」を、再び独立した国家宗教として再編していきました。
仏教への排撃
政府は、明治1年(1868年) 3月 27日「神仏判然令(神仏分離令)」を発布します。
しかし、この政策から仏教を排撃(追い払おうと攻撃すること)し、神道を極度に重んじようとする過激な廃仏毀釈運動が全国的に起こっていってしまいます。
仏を廃し、釈迦の教えを破毀(破棄)しようという動きのことです。
維新政府にとっては、天皇制集権国家を立ち上げるためには神道を国教化させる必要があり、そのために神道と仏教を分離させ、神道だけを政治利用しようとしたのです。
しかし、その思いつきとも言える神仏判然令が、一般庶民(特に神官・国学者たちを中心として)「神道を保護し仏教を消去せよ」と解釈させてしまったのでした。
そうなった理由のひとつには、江戸幕府が設けた「寺請制度」がありました。
寺請制度とは
当初「寺請制度」は、キリスト教やその他の幕府に従わない宗派を邪宗門とし、それを排除するために設けられました。
しかし、やがて仏教僧侶を通じた民衆管理(宗門人別改帳=今の戸籍原簿にあたるもの)が法制化され、幕府の出先機関となっていきます。
これにより一般庶民は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家(葬祭や供養などを専属で営んでもらう代わりにそのお寺を経済的に支援する家のこと)となる事を義務付けられました。
この寺請制度により一般庶民は、出生から結婚などあらゆる冠婚葬祭に際して、寺院にお伺いを立てなくてはならなくなり、結果僧侶は横柄になっていきます。
気に食わないものには法外なお布施を要求したり、ひどいものでは理由もなく無宿者(宗門人別改帳から外された者=住民票がない者)にされてしまったり、非人(乞食=住む家をなくし食物などを恵んでもらい生きる者)にされてしまったりということがありました。
こうしたことから、「坊主憎けりゃ袈裟(僧侶の正装)まで憎い」ということわざができるほど、仏教僧侶は憎まれてもいたのでした。
また、江戸時代後期には、復古神道を興隆(勢いが盛んになる)するべしという思想が一部国学者や神官の間で起こってもいました。
こうしたことにより、「神仏判然令」という、いわばお上のお達しというべきものが出たということで、廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた大規模な寺社・仏像などの破壊活動全国的に広がっていってしまったのでした。
それにより、江戸時代まであった仏教文化は否定され、寺院の廃止統合(それによる寺院の消滅・廃寺)・僧侶の神職への転向・仏像、仏具の破壊・仏事の禁止などを強制させられてしまいました。
その後明治政府は、「仏教を廃絶せよとは言ってはいない。」として、否定する明文を出しますが、この運動が鎮静化するまではかなりの時間を要しました。
大教という国家方針
明治2年7月8日(1869年8月15日)明治政府は、神道による祭政一致の思想を大教として、それを国民に広げるために「宣教使」が設置され、同年10月9日神祇官の所管となりました。
明治3年正月3日(西暦1870年2月3日)、明治天皇は神道国教化のために「宣布大教詔(命令書)」という詔書(天皇の意思を一般庶民に表すための公文書)を出します。
この宣布大教詔には「宜く治教(政治と宗教)を明らかにし、以て惟神(神の御心のまま)の大道(正しい道)を宣揚(盛んであることを世間に広く示すこと)すべき」とありました。
これは、天皇に神格を与え神道を国教と定めるというもので、日本(大日本帝国)を祭政一致(神道と政治の融合)の国家とするとした国家方針を「大教」として、国の内外に示したものでした。
明治4年5月14日(西暦1871年7月1日)、太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」が発布され、明治の社格制度が施行されました。
参考記事
これにより、明治の社格制度が決められかつての王権制度が復活したかに見えました。
そうして、宣布大教詔により、宣教使が神道国教化を推し進めるはずでした。
しかし、この宣教使の官員には国学者や儒学者たちが採用されたため、その理念の対立により全く機能しませんでした。
また廃藩置県(明治4年7月14日(西暦1871年8月29日施行)がおこなわれる前でもあり、各藩がほとんど無視したため宣教使は、何もできなかったのでした。
そして明治5年3月14日には、宣教使は廃止されます。
明治4年正月5日(1871年2月23日)、太政官によって寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収(一般の物を、国家が国の物として取り上げる事)されました。
明治4年8月8日(1871年9月22日)神祇官が廃止され、神祇省が創設されますが、半年足らずで廃止されました。
明治5年3月14日(1872年4月21日)「教部省」という中央官庁組織を設置します。
そしてその下に、国民教化の任にあたる「教導職」が設けられ、神道・儒教・仏教による合同布教体制によって運営することとなりました。
この「教導職」には、三条の教則を宣布させることとしました。
・敬神愛国の旨を体すべき事」
・天理人道(自然の道理と人としての道)を明にすべき事
・皇上(現在の天皇)を奉戴(尊んで仕えること)し朝旨(朝廷の意向)を遵守せしむべき事
の三条をいいます。
そしてこれにより、大教宣布運動を広げていこうとしました。
こうして国家神道政策は、神祇官→神祇省→教部省と変わったあとに「大教院」に委ねられました。
国家神道の迷走
しかし、大教宣布運動はほどなく頓挫してしまいました。
なぜなら、国民の信仰としての神道を広めるために設立した「教導職」という役人は、そう簡単に育成するのは難しく、結果人手不足に陥ってしまったからです。
そのためこの教導職には、神道の神官以外にも国学者や仏教の僧侶までもが集められていきます。
しかし、地方から集められた学者たちは旧来からの藩の儒教・仏教重視理念を持つものが多く、反発は強かったのでした。
そして当然、これらの人々に一貫した理念や路線を求めることは難しく、対立が激化していきます。
こうしたことがあり、政府は国家体制を神道に求めることをやめ、それを皇室のみに求めていくこととなりました。
そして、ほどなく明治政府は、神社を統廃合したり官社を民営化しようとしていきます。
まず、神祇宮・式部寮・教部省などが管轄していた行政業務を、府県知事に委任してしまいました。
そして、神社の最高官庁を神祇事務課から神祇事務局にし、神祇官も神祇省・教部省・内務省の寺社局としていきました。
また、国家行事としての宮中祭祀も廃止しました。
つまり、神道を国家体制から離そうとしていったのです。
そもそも、当初明治政府が行った祭政一致の政策は、国家としての神道とはいっても、実は計画性をもって組織を再編したわけでもなく、ざっくりとそういった概念があっただけのことでした。
つまり、明治政府はただ単純にかつての大和王権の国家体制を真似て、天皇制集権国家を創ろうとしたに過ぎなかったのでした。
こうしたことから、この後さらに明治政府の国家政策は変貌し暴走していきます。
大教宣布運動の失敗
大教院は、そのはじめから雑多な職種の人々を寄せ集めた団体だったため、当然様々な軋轢(お互いがいがみ合うこと)が生じていきます。
そして、それが維持できなくなった明治8年(西暦1875年)4月、大教院は解散・閉鎖となります。
その後組織としては残り、神道事務局(後に神道本局)となりました。
そして教部省は、明治17年(西暦1884年)末までに伊勢神宮及び一部の官国幣社(約150社)を除いた神社が自立経営するよう求めました。
その後、教部省は明治10年(1877年)1月11日に廃止となり、その教導職にあった人々は神道事務局に合流します。
やがて神道事務局も廃止となり、教派神道(宗派神道)が出来ていきます。
これはかつての神道宗派(神仏混淆)とは違い、もともとは国教としての神道だったものが変化した、特殊な神道宗派でした。
官社から神社合祀へ
明治20年(1887年)ごろから、政府から官国幣社への支出は徐々に減額されていきました。
そして、明治39年(西暦1906年)「神社合祀令」が第1次西園寺内閣の内務大臣・原敬によって出されます。
これは、神社を1町村に1社とするものでした。
これにより、例えば三重県に6500社あった神社は7分の1以下に、和歌山県に3700社あった神社は600社以下にされ、最初の3年間で全国では4万社が取り壊されました。
そして大正2年(西暦1913年)頃には、この事業はほぼ完了し、社数は19万社から12万社に激減してしまいました。
地方信仰の消失
かつてはどこの村にも、いわゆる「鎮守の森」と呼ばれる村の守り神を祀る神社がありました。
それは、太古から続いた地域の集落において、そこに住む人々の大切な交流の場でした。
しかし、それはかつて大和王権によって統制され、そしてまた明治政府によって統廃合されてしまったのでした。
長い歴史を持つ社殿は壊され、樹齢千年を超える神木も伐採され、売り払われました。
これによって喪失した地方信仰は数しれません。
また、それによって地域のつながりが希薄になり、現代へとつながっているようにも見えます。
それも時代の流れと言ってしまえばそれまでなのかもしれませんが・・・。
国体主義から神国日本へ
さて、明治政府が神道を国家の形成に取り入れたのは、あくまで欧米に対抗しようとし、対外的に対等な外交に必要だと考えたからでした。
それはしかし、政府の二転三転する政策や、「祭政一致」の名目で国民を社会的な精神統合へと教導させようとしたことなどから、民族主義(ナショナリズム)へと変貌していってしまいます。
こうして明治末期になると、天皇に対する考え方も変わっていきました。
神道思想を国で管理して強制をしていった結果、天皇を神とする「神国日本」という民族意識が一般庶民に浸透していってしまったのです。
それは、かつて神道が信仰から宗教へと変えられたように、宗教から思想へそして観念論へと変わっていった大きな転換期でした。
やがてそれは、「天皇は親であり、国民は子である。」というような国家家族論に変わっていきます。
その後、大正から昭和に入る頃になると、神国思想は少しずつ拡大解釈されていきます。
そして、「現御神(現人神)」や「八紘一宇」などの言葉も使われるようになっていきました。
日本書紀にある文章の一節です。
「八紘(天地を結ぶ8本の綱)を掩て宇にせむ」
と書かれています。
その意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすことです。
この言葉は、昭和15年(西暦1940年)8月、第二次近衛内閣が基本国策要綱で、「皇国(天皇の治める国)の国是(国の基本的方針)は八紘を一宇とする肇国(建国)の大精神に基づき大東亜新秩序(大東亜共栄圏=欧米の植民地支配に代わり、日本中心の東亜諸民族による共存共栄)を進める」と述べたことにより広まりました。
そうして第二次世界大戦の前ごろには、「現人神である天皇のために戦い命をささげることこそが、神国日本に生まれた日本人の美徳である」という、国民統制のための観念論にかわっていってしまいました。
結果的に明治政府は、万世一系の天皇によって統治される国という国体思想を広めてしまったことは間違いありません。
そうしてそこには、すでに神道という宗教はなく天皇制君主国家を目指す政府があるだけでした。
そして、第2次世界大戦中に日本が中国や東南アジアへ侵略する際には、戦争を正当化するための国家スローガンとして用いられました。
神国日本の末路
やがて日本は、大東亜戦争(第二次世界大戦)という最悪の事態へと突き進んでいってしまいます。
この頃にはほとんどの日本人は「神国日本は神州不滅(神国は不滅であるという観念論)であり、神に守られている我々は戦いに負けるはずはない」と信じ込むに至っていました。
神国思想は極度に行き過ぎてしまい、いわゆる神懸り的なものにまでなってしまっていたのです。
そうしたことから、合理的な思考を持っていたはずの軍人の中にも、「日本は神国であるから、負けることはあり得ない」と考えていた人も大勢いました。
そして、「神国日本」には、悲惨な末路が待っていました・・・。
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