【古事記】(原文・読み下し文・現代語訳)中巻・その壱

於是其伊須氣余理比賣命之家 在狹井河之上 天皇幸行其伊須氣余理比賣之許 一宿御寢坐也【其河謂佐韋河由者 於其河邊山由理草多在 故取其山由理草之名號佐韋河也 山由理草之本名云佐韋也】後其伊須氣余理比賣參入宮內之時 天皇御歌曰
阿斯波良能 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯
然而阿禮坐之御子名日子八井命 次神八井耳命 次神沼河耳命 三柱

於是(こにおいて)(そ)伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと)(の)(いへ)狭井(さい)(かは)(の)(かみ)(あ)天皇(すめらみこと)(そ)伊須気余理比売(いすけよりひめ)(の)(もと)幸行(いでまし)一宿(ひとね)御寝坐(いねま)しき(なり) 【其の河佐韋(さい)(かは)(い)(よし)(は)(そ)河辺(かはへ)(おいて)山由理草(やまゆりくさ)(さは)(あ)(ゆえ)(そ)山由理草(やまゆりくさ)(の)名取り佐韋(さい)(かは)(なづく)(なり)山由理草(やまゆりくさ)(の)(もと)佐韋(さい)(い)(なり)(のち)(そ)伊須気余理比売(いすけよりひめ)宮の内に参入(まい)りし(の)天皇(すめらみこと)>御歌(みうた)ひて(いは)
阿斯波良能(あしはらの) 志祁志岐袁夜邇(しげしきをやに) 須賀多多美(すがたたみ) 伊夜佐夜斯岐弖(いやさやしきて) 和賀布多理泥斯(わがふたりねし)
然而(しかるゆえ)(あ)(れ)(ま)し之御子(みこ)日子八井(ひこやい)(みこと)神八井耳(かむやいみみ)(みこと)神沼河耳(かむぬなかはみみ)(みこと)名づく三柱(みはしら)

さて、伊須気余理比売命いすけよりひめのみことの家は、狭井さい川の川上にありました。

天皇は、その伊須気余理比売いすけよりひめのところにおいでなされて、一夜床を同じくしました。

【その川を「さい川」というわけは、その河辺に山百合草やまゆりそうが群生していましたので、その山百合草やまゆりそうの名を取り「さい川」と名付けられました。山百合草の元の名は「さい」と言います。】

のち伊須気余理比売いすけよりひめが宮の内に参いられた時、天皇はこのように歌われました。

葦原あしはらしげしき小屋をや菅畳すがたたみ いやさやきて が二人寝し

葦原の粗末な小屋に菅畳を、華やいだ気持ちで敷いて二人で寝たものだね。

このようにして生まれました御子みこたちは、日子八井命ひこやいのみこと、次は神八井耳命かむやいみみのみこと、次は神沼河耳命かむぬなかわみみのみことという名の三柱みはしらです。

故天皇崩後 其庶兄當藝志美美命 娶其嫡后伊須氣余理比賣之時 將殺其三弟而謀之間 其御祖伊須氣余理比賣患苦而 以歌令知其御子等歌曰
佐韋賀波用 久毛多知和多理 宇泥備夜麻 許能波佐夜藝奴 加是布加牟登須
又歌曰
宇泥備夜麻 比流波久毛登韋 由布佐禮婆 加是布加牟登曾 許能波佐夜牙流

(かれ)天皇(すめらみこと)かむあがりましぬ(のち)(そ)(まま)(せ)当芸志美美(たぎしみみ)(みこと)(そ)嫡后(おほきさき)伊須気余理比売(いすきよりひめ)(めあは)(の)(まさ)(そ)(みたり)(おと)殺さむ(しかるに)(はか)りし(の)(ま)(そ)御祖(みおや)伊須気余理比売(いすきよりひめ)(うれ)(くるし)みて(しかるに)歌以(うたもち)(そ)御子(みこ)(ら)に知ら(し)むと(うたよみ)(いは)
佐韋賀波用(さいかはよ) 久毛多知和多理(くもたちわたり) 宇泥備夜麻(うねびやま) 許能波佐夜藝奴このはさやぎぬ 加是布加牟登須(かぜふかむとす)
(また)(うたよみ)(いは)
宇泥備夜麻(うねびやま) 比流波久毛登韋(ひるはくもとい) 由布佐禮婆(ゆふされば) 加是布加牟登曾かぜふかむとぞ 許能波佐夜牙流(このはさやげる)

そして、天皇が崩御された後、その庶兄しょけい(妾腹めかけばらの兄)の当芸志美美命たぎしみみのみことは、さきの天皇の正妃、伊須気余理比売いすきよりひめめとるにあたり、三人の弟を殺そうとしていました。

その計画をたてている間に、そのお母上の伊須気余理比売いすきよりひめは悩み苦しんで、歌によって御子みこたちに知らせました。

その歌はこれです。

 

狭井川由さいがわよ 雲立ち渡り 畝傍山うねびやま 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす

狭井川さいがわから雲が立ち渡り、畝傍山うねびやまの木の葉が音をたてています。 風が吹こうとしています。

また、この歌をよみました。

畝傍山うねびやま 昼は雲と 夕去れば 風吹かむとぞ 木の葉さやげる

畝傍山うねびやまに、昼は雲がかかっていましたが、夕には晴れたので、風が吹くのでしょう。木の葉は音を立てています。

於是其御子聞知而驚 乃爲將殺當藝志美美之時 神沼河耳命曰其兄神八井耳命 那泥【此二字以音】汝命 持兵入而殺當藝志美美 故持兵入以將殺之時 手足和那那岐弖【此五字以音】不得殺 故爾其弟神沼河耳命乞取 其兄所持之兵 入殺當藝志美美 故亦稱其御名謂建沼河耳命

於是(こにおいて)(そ)御子(みこ)聞き知りて(しかるに)驚きて(すなは)当芸志美美(たぎしみみ)殺さむと為将(まさにせし)(の)神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)(そ)(せ)神八井耳命(かむやいみみのみこと)(まを)さく那泥(なね)(こ)二字(ふたもじ)(こえ)(もち)てす】(な)(みこと)(つはもの)持ち(い)りて(しかるに)当芸志美美(たぎしみみ)殺さむ(かれ)(つはもの)持ち(い)(もち)(まさ)殺さむ(の)時手足和那那岐弖(わななきて)(こ)五字(いつもじ)(こえ)(もち)てす】不得殺(えころさず)(かれ)(ここ)(そ)(おと)神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)(そ)(せ)(ところ)(も)ちたり(の)(つはもの)(こ)ひ取り(い)りて当芸志美美(たぎしみみ)殺しき(かれ)(また)(そ)御名(みな)(たた)(たて)沼河耳(ぬなかはみみ)の命(みこと)(い)

ここに、御子みこたちは聞いて驚きました。

そして、当芸志美美たぎしみみが殺そうとしている時、神沼河耳命かむぬなかはみみのみことはその兄神八井耳命かむやいみみのみことに申し上げました。

「あなた様が武器を持って入り、当芸志美美たぎしみみを殺してください。」

 

ゆえに、武器を持って入り殺そうとしましたが、手足が戦慄わななき殺せませんでした。

そのために、弟の神沼河耳命かむぬなかはみみのみことが、兄が持っていた武器を譲り受け取って、入って当芸志美美たぎしみみを殺しました。

このことから、また御名みなしょうたけ沼河耳ぬなかはみみみこととも言われます。

爾神八井耳命讓弟建沼河耳命曰 吾者不能殺仇 汝命既得殺仇 故吾雖兄不宜爲上是以汝命爲上治天下僕者扶汝命 爲忌人而仕奉也 故其日子八井命者【茨田連手嶋連之祖】神八井耳命者【意富臣 小子部連 坂合部連 火君 大分君 阿蘇君 筑紫三家連 雀部臣 雀部造 小長谷造 都祁直 伊余國造 科野國造 道奧石城國造 常道仲國造 長狹國造 伊勢船木直 尾張丹羽臣 嶋田臣等之祖也】神沼河耳命者 治天下也 凡此神倭伊波禮毘古天皇御年 壹佰參拾漆歲 御陵在畝火山之北方白檮尾上也

(かれ)神八井耳命(かむやいみみのみこと)(おと)建沼河耳命(たてぬなかはみみのみこと)(ゆづ)りて(いは)(あ)(は)(あた)不能殺(えころさざ)りて汝命(ながみこと)(すで)(あた)得殺(えころ)しき(かれ)(あ)(せ)(いへども)(かみ)(いた)すこと不宜(よろしからず)上是(このうへ)汝命(ながみこと)(もち)(かみ)(いた)天下(あめのした)(をさ)(やつかれ)(は)汝命(ながみこと)(たす)忌人(いはひ)(な)(しかるに)(つか)(まつ)らむ(なり)(かれ)(そ)日子八井命(ひこやいのみこと)(は)茨田連(まむたのむらじ)手嶋連(たじまのむらじ)(の)(みおや)神八井耳命(かむやゐみみのみこと)(は)意富臣(おほのおみ)小子部連(ちひさこべのむらじ)坂合部連(さかひべのむらじ)火君(ひのきみ)大分君(おほきだのきみ)阿蘇君(あそのきみ)筑紫三家連(つくしのみやけのむらじ)雀部臣(さざきべのおみ)雀部造(さざきべのみやつこ)小長谷造(をはつせのみやつこ)都祁直(つげのあたひ)伊余国造(いよのくにのみやつこ)科野国造(しなののくにのみやつこ)道奧石城国造(みちのくのいはきのくにのみやつこ)常道仲国造(ひたちのなかのくにのみやつこ)長狭国造(ながさのくにのみやつこ)伊勢船木直(いせのふなきのあたひ)尾張丹羽臣(おはりのにはのおみ)嶋田臣(しまだのおみ)(ら)(の)(みおや)(なり)神沼河耳命(かみぬなかはみみのみこと)(は)天下(あめのした)(をさ)めたまふ(なり)(おほよそ)(こ)神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)天皇(すめらみこと)(おほみ)(とし)壹佰参拾漆歳(ももちあまりみそぢあまりななとせ)御陵(みささき)畝火山(うねびのやま)(の)北方(きたのへ)白檮(かし)尾上(をのへ)(あ)(なり)

そして、神八井耳命かむやいみみのみことは弟の建沼河耳命たてぬなかはみみのみことに、このようにお譲り申し上げました。

「私は敵を殺すことができず、あなた様は既に敵を殺すことができました。 よって私は兄ではありますが、上に立つのはよろしくありません。この上は、あなた様こそが上に立たれ天下を治められませ。私めはあなた様をおたすけし、神事をつかさどる立場でお仕え申し上げます。」

さて、日子八井命ひこやいのみことは、 茨田連まむたのむらじ手嶋連たじまのむらじの祖先です。

神八井耳命者かむやいみみのみことは、多臣おおのおみ小子部連ちいさこべのむらじ坂合部連さかいべのむらじ火君ひのきみ大分君おおきたのきみ阿蘇君あそのきみ筑紫三家連つくしのみやけのむらじ雀部臣さざきべのおみ雀部造さざきべのみやつこ小長谷造おはつせのみやつこ都祁直つげのあたい伊余国造いよのくにのみやつこ科野国造しなののくにのみやつこ道奧石城国造みちのくのいわきのくにのみやつこ常道仲国造ひたちのなかのくにのみやつこ長狭国造ながさのくにのみやつこ伊勢船木直いせのふなきのあたい尾張丹羽臣おわりのにわのおみ嶋田臣しまだのおみたちの先祖です。

神沼河耳命かみぬなかはみみのみことは、天下を治められました。

大略たいりゃく神倭伊波礼毘古かむやまといわれびこ天皇は、御年おんとし百三十七歳でした。

御陵みささき(墓所)は畝傍山うねびやまの北方、白檮かしの尾根の上にあります。

人気ブログランキング

古事記

Posted by 風社