【神道の歴史】その壱~独立主権国家のために創られた宗教・神道~
新たな国書の編纂
そこで、次に天皇に即位した40代天武天皇(大海人皇子)は、列島の国家意識を一つにまとめ、天皇の権威付けを図ろうと、新たな公式文書の編纂に取り掛かるのでした。
それが古事記・日本書紀です。
この古事記と日本書紀は、天皇制の根幹となる神道の起源を示し、日本という国としての起源を書として創り、この国が国としてあるべきだという正当性を広く国の内外に示そうとする書物でした。
現代では2書をまとめて記紀と言っています。
しかし、なぜ二種類の書物を編纂する必要があったのでしょう。
それは、古事記と日本書紀の内容が違うことからわかります。
古事記
古事記は、上・中・下巻のうち上巻はすべて天皇の祖先とされる神話の神々の話で、残り2巻で33代推古天皇までの話が手短かに書かれています。
つまり古事記には、初代天皇に至るまでの祖先とされる神々の来歴や系譜に重点がおかれ、天皇がこの国の君主としてあるべきだという正当性が詳細に書かれているのです。
また、古事記は大和がな混じりの漢語で書かれ、当時の国内の人々にも読みやすくなっていました。
古事記の序文には、「列島各地の集落に勝手な神話が点在するので、日本国として正当な歴史書をつくるため。」と書かれています。
しかし実は古事記は、列島各地にあった各民族の習慣・風習に配慮し、それぞれの話を盛り込むことにより国家としての体制を維持し、さらにこれにより天皇集権国家としての大義名分をつくり国内向けに天皇を権威づけしようとしたものでした。
つまり古事記は、国内の民向けに、天皇の祖先である神々を説明したものでした。
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日本書紀
対して日本書紀は、全30巻ある中の2巻目までが初代天皇までの神話で、残り28巻は二代以降の天皇が行った業績が紀年順に書かれています。
そしてこの日本書紀は、大陸の人々が読めるように漢文で書かれています。
このことから日本書紀は、海外の国に向けて、日本国の創世から始まる天皇の系譜を説明し、日本国の権威を示そうとした書物ということがわかります。
天皇の神格化
また、天皇は「天津神(天神)の御言持である」としました。
御言持とは神の言葉の伝達者という意味で、キリスト教などで言う預言者ということです。
そして、「天皇の御身体は、神の言葉を伝えるための貴い容れ物であり、天皇の発する言葉は神の発する言葉であるから、天皇は貴いのである。」として、天皇を神格化しようとしたのでした。
律令制による集権国家
大和王権は、組織的な集権国家を創るため大陸の律令制に倣い、律という法律を定め、令という中央官制の制度を定めました。
それにより、大和王権を単なる集落の寄せ集めではなく、国家としての形を確立しようとしたのでした。
この律令制の構想は、36代孝徳天皇の時代に行われた大化の改新によってすでに始められていましたが、36代天智天皇により発布された国政改革(近江令)により、令制国(律令国)と呼ばれる地方行政区画が詳細に形成されていったのでした。
その後40代天武天皇による律令制定を命ずる詔が出され、続く41代持統天皇による飛鳥浄御原令が完成・施行されました。
そして、42代文武天皇により「大宝律令」として完成を見ました。
こうして、律令制としての国家体制の一環である、中央官制・地方官制という行政機関が設置されました。
これにより大宝律令による統治・支配は、この頃大和王権が支配していた領域(東北地方を除く本州、四国、九州の大部分)にほぼ一律的に及ぶことになっていきます。
中央管制
中央官制の組織制度では、大王(天皇)の下に神祇官・太政官という二つの最高機関を置きました。
神祇官
大王(天皇)が崇拝する神に関する祭祀・儀式の一切を取り仕切る官庁でした。
神祇官の長官は、神祇伯といいました。
神祇伯は大嘗祭・鎮魂祭・卜兆などの国家的儀式の総責任者として神事を統括し、祭祀を執り行う祝部や神戸などを監督する官司(管理者)でもありました。
太政官
今で言う霞が関のような組織で、行政全般を司りました。
一般庶民が守るべき決まりごとを作ったり(立法)・それを破るものを取り締まったり(司法)・租税を徴収したり(行政)など一般庶民の生活全般を取り仕切っていました。
太政官の長官は太政大臣といいました。
地方管制
地方官制下では、国司という役人が各集落を取り仕切っていました。
これは今で言う県知事のような役割でした。
そして国司は、天皇家の一族の者が任命され集落を管理するとともに天皇集権国家の確立を目指し、神道を地方にも浸透させ天皇を崇めさせるという目的がありました。
また、国司の下に郡司という役職を置き、これにはもとの集落の首長(代表)を任命しました。
なぜなら、これにより地方の集落の人々の反発を抑え込むという目的があったからでした。
律令支配の翳り
こうして、神道という国家宗教による祭政一致(政教一致=政治と宗教が一体となった国家)を土台とした、天皇制集権国家が出来たのでした。
当初は、これによって国家が安定し、体制がうまくいくはずでした。
ところがその後、当の天皇一族が継承争い(跡継ぎ争い)や権力争い(国家機構の支配権争い)を繰り返すようになり、内部分裂状態になってしまいました。
そしてこれにより、律令国家として集権国家を束ねていく存在だったはずの大和王権は、次第にその支配力を失っていってしまいました。
こうして、中央官制自体が地方の人々の離反により機能しなくなり、人民支配・租税収取などの役目から逃亡するものが全国で頻発するようになっていってしまったのです。
また、律令制により官僚制度に重きをおいた結果、かつてあった軍事を担当する豪族たち(物部氏・大伴氏・紀氏・平群氏など)による軍団が廃止になると、東国では僦馬・西国では海賊と呼ばれる群盗(盗賊団)により地方の集落が次々と襲われるようになり、日本全国で治安が悪化していきました。
こうした状態に陥ったことにより、神道は大和王権と共に消滅するかに見えました。
しかし、その本質は消えることはありませんでした。
なぜなら、時の権力者が誰であろうとこの列島に住み着いた人々にとって、太古の昔から祖先たちが紡いできた、祈りという信仰の文化を捨てることはあり得なかったからです。
こうして神道を取り巻く情勢は、次の時代へと移り変わっていきます。
現代ではこの移り変わりの時期を、律令国家から中世国家体制(武家政権)へ移行する過度期であるとして、王朝国家の時代と呼んでいます。
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